2021年12月5日日曜日

信仰、望みえない時に

  義人は信仰によって生きる、と聖書には書かれています。(へブル人への手紙1028節)クリスチャンの多くは、信仰を増し加えてほしい、信仰を通しての神のみ働きに与りたいと、そう願っているものです。聖会などで、祈りを求めて並ばれる方の多くが、信仰が増し加わることを祈りの課題として挙げておられます。

 私もそれには同感で、日々の営みの中で、つい不信仰になってしまうことが多々あります。期待するべき時に不信仰に捕らわれ、神の手を止めてしまう失敗を何度も経験しました。信じようとしない頑な心、不信仰に対しては、聖書の中でもたびたび主は嘆かれています。なぜなら、主は最善のものを用意してくださっているのに、不信仰であるがために私たちがそれを受けないで終わってしまうのです。

 信仰って何でしょう。考えてみたことはありますか。自分は不信仰だという苦手意識が感情を支配していませんか。確かにここには戦いがあります。しかし、信仰は神が与えてくださるものでもあるのです。

 ローマ人への手紙418節に、「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」という一文があります。これは、直接にはアブラハムの信仰について書かれているものです。アブラハムはもう子をもうけるのは不可能な年齢でありながら、約束の子イサクを受け、更にはあらゆる国の人々の父となるという神の約束が自分に成就することを信じたのです。この信仰が大きく彼の人生を変えていきました。

 信仰は、「望み得ないときに」というこの一語に集約されています。というのも、望み得る状況であるなら、人はわざわざ望むようなことはしませんし信仰を用いることもしません。望み得ない状況で望むのが信仰なのです。ですから、私たちの信仰はおおよそ望みを得ない状況からスタートするのです。

 恐れてはなりません。信仰は全て、望み得ないという所から始まります。望み得ない状況、これが信仰の出発点となり、ここから奇跡を見、解決を見るのです。最初は誰でも疑います。信仰が持てない環境にあるかもしれません。しかしその時こそ、信仰を用いるその時なのです。望み得ない今こそ、まさに信じる時なのです。

 聖書に、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル人への手紙122節)と書かれています。神によって始まったことは神ご自身が完成させてくださいます。私たちの望みは、神にあります。信仰をもって、神に近づき神の実を結びましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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