2021年12月12日日曜日

神との和解

 キリストに出会う前、罪に対して私たちは、絶望的な者でした。生まれながらの罪人である私たちは、どう気をつけていても、日常の営みの中でさまざまな罪を犯してしまいます。これに対してはあわれみを乞うよりほかありません。しかし人の誰が、犯した罪を赦すことができるでしょうか。罪を詫びると隣人はあるいは許してくれるでしょう。でも、その人もまた罪を犯す同じ人間なので、罪を犯した私の罪を赦す力は持ちません。罪の赦しを取り持つのは、一度も罪を犯したことのない人物でなければならないのです。

 旧約時代は、罪のためのいけにえに子羊をとり、自分の身代わりとして屠(ほふ)りささげました。当時は、これがオーソドックスな罪の赦しであったのです。しかし、それには限界がありました。いくら羊をいけにえにささげても罪が完全に無くなるわけでなく、年ごとに繰り返しささげなければならず、返ってそのことによって罪意識は昂じました。そこで、神はご自身のひとり子であるイエス・キリストをくださったのです。イエス・キリストは、罪のないお方です。神の満ち満ちた実質を体現した神のひとり子です。私たちを贖うことができる唯一のお方です。

 そして事実、イエス・キリストは約2000年前にこの世に来られました。神であられるのに身をいやしくし肉をまとわれ、病をいやし奇跡を行い神の恵みの日が来たことを証しされました。そして、ご自身が世に来られた理由であり使命であった罪の贖いを成し遂げてくださいました。主イエスはカルバリの丘で、全人類の罪を負って十字架にかけられ、死んでくださったのです。

 しかし、この方がいつまでも死につながれていることなどありません。イエスさまは亡くなりましたが、3日目に死者の中から復活を遂げられました。ここに人類に対する贖いがなされ、救いが完成しました。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自身の肉によって敵意を廃棄されました。(エペソ人への手紙215節)死と復活という試みを通られたられたイエスさまだけが罪の赦しをなされる権威をお持ちなのです。

 こういう訳で、イエス・キリストによる贖罪が完成した今、私たちに対する神さまのみこころは和解にあります。コリント人への手紙第二5章には次のように書かれています。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられたのです」(19節)違反行為の責めとは罪のことです。もはや、それが問われることはなく、神は愛するあなたがご自分の元に帰って来るのを待っておられます。神の和解に応じましょう。 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


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