2021年10月13日水曜日

愛のかたち

 私の夫は、生まれた時から病弱で、この子は二十歳まで生きないであろうと医者に言い渡されていました。そこで、小学3年から3年間、区内の体の弱い子たちが集まる千葉の健康学園にいきました。そこでは学業が今一つ振るわないので、ある時、義母が学校に呼び出されました。ところが義母は、そこで担当の先生に啖呵を切ったのです。「うちのこはな、生きているだけでいいんだよ! いいか、勉強しなさいなんて絶対言うなよ。言うと承知しないからな」圧巻です。子に対する母の愛はかくも深いものなのかと、私も面喰いました。

 母の愛と言えば、皇后雅子さまは、娘の愛子さまが不登校であった時、いつも学校に付き添われました。それをバッシングされ、いろんなストレスがあったでしょう。しかしそれでも雅子さまは、ご自分の体調がすぐれないのにもかかわらず、付き添いを続けられました。ことわが子の事であるなら、親は困難を耐え忍ぶことができるのです。これは、愛です。確かに愛だと思います。

 10代の後半、私は重い病気になりました。車いすで飛行場に着いた時、真っ先に父が駆け寄り迎えてくれました。父は知人に「代われるものなら代わってやりたい」と語ったといいます。父とはよく喧嘩し、勘当され、仲が悪かったのです。しかし、本当のところは、父にも愛されていたのです。私が思うような形の愛ではなかったのでそれが見えなかっただけで、私は愛されていました。

 愛は、自らを犠牲としてささげることをいとわぬものです。私の次女は重症のアレルギーで、治療のために除去食の実行が必要でした。アレルギーの子専用のミルクもありますが苦くて飲まないので、代わりに私が除去食をして母乳で育てました。よくそこまでできるわね、と感心されましたが、子どものためなら苦にはなりません。これは今までにない発見で、私にも愛がはたらいていたと思います。

 先日、ある若い女性と結婚について語り合いました。彼女は、自分以上にその人が大事で、自分を忘れるくらいその人のことを大切に思える、そんな人が現れたら結婚してみたいな、と控えめに語りました。なるほどと思います。それが出会いというものなのでしょう。愛は、そのかたちにおいて自己否定を伴います。逆に言えば、自己否定できるのが愛です。自分以上に大切なものとして相手を持つこと、それは一つの愛のかたちだと思います。

 イエス・キリストは、その生涯において、私たちを愛されました。イエスさまは、私たちを贖うために世に来られました。十字架で死なれたのは、それが私たちを贖うための代価であったからです。イエスさまは、罪人である私たちの身代わりとしてただ一度死なれたのです。そして、その死を代価に、人類のすべての罪が贖われ、またそれによって罪の赦しを受けました。そして、それが確かなものであることのあかしとして、イエスさまは死んで3日目に復活を遂げられました。このことを信じ告白するなら、私たちは救いに与かります。

 世にはさまざまな愛のかたちがあります。親子の愛、友愛、男女の愛、そして神の愛です。すべての愛の土台となるのは、キリスト・イエスにある神の愛です。神はあなたを愛しておられます。主イエスをあなたの救い主として心にお迎えいたしましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

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