2022年12月10日土曜日

 

 愛は、一輪のバラの花のようです。かぐわしく、高貴で、たおやかで、しかもその茎にはとげを備えていて。派手なようでもどこか孤独で繊細で、私たちを魅了してやみません。

 私にとって愛はそういうイメージです。日本語では愛が意味するところは広いのです。比較すればギリシャ語では一口に愛といっても、少なくとも3つの言葉に分かれます。一つは神の愛を指し示す「アガペー」、次いで友愛を表す「フィレオー」、男女間の愛である「エロス」です。言葉が違うということは、その内容に区別があるということです。

 私の夫の母は、愛の奇才でした。夫は病弱で、長くは生きられないと医師から言われており、大切に育てられていました。でも小学校に入るようになると次第に勉強のことが言われるようになります。そんなある時、義母は単身小学校に乗り込み、先生を相手にたんかを切りました。「この息子は生きてさえいればそれでいいんだ。だからな、勉強しろなんて絶対言うんじゃないぞ」こんな大きな愛に夫は支えられていたのです。

 この義母を見て私は、親の愛というものは、どんな時でも無条件で自分の味方をしてくれるものなのだということを知りました。もちろん罪を犯した時、その罪は正しく裁かれます。しかし、だからといってその者を愛することをやめたりなどするでしょうか。しないです。豊かに赦し、むしろ立ち直ることができるよう、ねんごろに悔い改めへと導いてくださいます。だからこそ、この掛け値なしの無条件の愛は貴いのです。

 私たちは、例外なく罪の中に生まれ、やがては死んでゆく存在です。それをご存じな神さまは私たちを愛してくださり、罪過の中に死んでいる私たちをあわれんでくださいました。父なる神は私たちを救うために、ひとり子イエスさまを下さったのです。神さまにとってそれは大きな犠牲でした。しかし私たちへの愛ゆえに、神は私たちのすべての罪をイエスさまの上に置かれたのです。イエスさまは、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、神の大能の御力によって三日目によみがえられました。

 事実イエスさまは、約2千年前に初臨を果たされています。私たちを救うために肉を受け、世に来られたのです。そして3年半の公生涯の中で、ご自身が約束のメシアであることを世に示し、罪過に死んでいる私たちの身代わりとなって罪を担い、十字架での死によって私たちの贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。

 この主イエスの十字架を信じることによって、私たちは神と和解し、永遠のいのちを頂きます。そして後には、もはや死ぬことのない復活のからださえも受けるようになるのです。神は愛です。私たちはこのご愛のうちを歩みましょう。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書316節)

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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