弱さを誇る
キリスト・イエスの使徒であるパウロは、成功者であり、世が推奨するものすべてを持った人物でした。生まれながらのローマ市民で、最高学府であるガマリエル門下に属し、律法においては誰よりも進んでいました。エリートと呼ぶにふさわしい者であったのです。
ところが、皆さんがご存じのように、青年サウロはキリスト・イエスに対する迫害に燃えていました。祭司長たちからの権限と委任を受けて、聖徒たちを追ってダマスコまでやって来ました。そして、そこで主の声を聞きます。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」
それはイエスさまの声でした。イエスさまがサウロに現れてくださり、この一件を機にすべてが一変します。迫害者サウロは、キリスト・イエスのしもべパウロに変えられ、この日を境にパウロは今まで迫害してきたユダヤ人に対して、一転して福音を信じるようにと説く神の器になりました。
その後のパウロの働きは素晴らしいものでした。詳しくはコリント人への手紙第二11、12章に記されています。11章でパウロはキリストの福音のために、誰よりも多く患難困難の中を通ったことを記しています。今までのパウロの力は、自分の強さ、すなわち社会的成功にありました。しかし、その日以降は自分の弱さ、すなわちありのままの彼を通して働いてくださるキリストの力により頼んで生きるようになったのです。
11章30節でパウロは「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」と語りました。「弱さ」は「足りなさ」と言い換えても良いでしょう。この足りないところにキリストの素晴らしさが働くのです。弱さのうちにいかにキリストの力が働くのかをパウロは知っていたのです。それで、パウロは「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(12章9節)と言い得たのです。
このことは、長年、弱さは乗り越えるべきハンデイだと思っていた私にとって、驚くような教えです。しかし、イエスさまはパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(12章9節)と語られました。弱さは、一見マイナスのように見えます。しかし、それは世の認識であって、神と共に歩む人生において弱さは、神のみ力の現れとなり、また私たちに大きな恵みをもたらすものであるのです。
こういう訳で、私たちもまたキリスト・イエスを信じ、救い主として、また自分の主として心にお迎えいたしましょう。私たちの力は、他でもない主のうちにあります。何を誇りとするかと問われた時に、弱さと答えたパウロのその信仰に倣いましょう。
「MIKOE NEWSから転載」 2022年11月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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