2014年5月6日火曜日

奇跡を信じる
 私が所属する教会は、今でも神さまはいやしをなされるという立場に立ってい
ます。マルコによる福音書には「病人に手を置けば病人はいやされま す」(16
18節)と書かれていますし、イザヤ書には「彼(イエスさま)の打ち傷によっ
て、私たちはいやされた」(535節)と、神癒の根拠 さえ示されています。こ
のみ言葉を信じ行った結果、教会では毎日のようにいやしが起こっています。
 先日も、教会のTさんが、頭部を強く打ち意識不明、けいれんまでおこす事故
が起こりました。ご両親と教会の祈りの手が一斉に上がる中、祈り始め るとピ
タッとけいれんが止まり意識が回復しました。みな口々に奇跡だの声があがり、
大いなる栄光が現されました。
 教会には癒やしがあります。イエスさまは今でも、ご自身のみからだなる教会
に満ちておられ、信じる者たちを通していやしやさまざまな奇跡をなし てくだ
さいます。それ故、私たちには、どのような困難のなかにあっても希望があるの
です。この希望は、信仰とともにあります。
 では信仰とはいったい何でしょう。ローマ人への手紙4章11節に「彼は望みえ
ないときに望みを抱いて信じました」と書かれています。これはアブ ラハムの
信仰のことを言っています。約束の子イサクさえ産まれていなかったにもかかわ
らず、アブラハムは空の星ほどの子孫を与えると語った神を、 その言葉を信じ
ました。望みえないときに望みを抱く、信仰はここから働きます。現実ではな
く、神のことばに立つ、これが信仰なのです。
 あなたもまた、神を信じるなら、生ける神の奇跡を見るようになります。そし
てこの希望は決して失望に終わる事がありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月11日号(第779号)より転載—

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