2025年12月27日土曜日

 ナオミの嫁ルツ

 さばきつかさが治めていたころ、すなわち霊的にも実質的にも暗黒の時代に、ベツレヘムに住むエリメレクという人物は、妻と二人の息子を連れて、生活のために異邦人の地であるモアブに住まいを移しました。ところが、エリメレクは早々と死に、彼女とその息子が残され、兄である「マフロン」と弟「キルヨン」は、それぞれモアブ人の女を妻として迎えました。1人の名はオルパで、もう1人の名はルツで、彼らは約十年の間そこに住みました。ところが、このこの「アフロン」と「キルヨン」もまた死んでしまい、ナオミは夫と子どもに先立たれます。(ルツ記115節)

 彼女の希望は出てきたユダの地に帰ることでした。ユダの地を神が顧みてくださって、パンを得られると聞いたからです。そこで二人の嫁と共にユダの地へ向かう旅を続けます。
 しかし、そのうちにナオミは二人の嫁に言います。「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜り、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように」(89節)

 こうして、二人に別れの口づけをしたので二人は声をあげて泣きました。「いいえ。私たちは、あなたの民の所へあなたと一緒に帰ります」。彼女らはナオミからイスラエルの神について学び愛し仕えていたのでしょう。その決意と信仰は堅いものでした。
 しかし、ナオミは、もう自分には子を持てないこと、たとえ子を産んでも成人するまで待たせておけないことを語り、彼女らを説得します。彼女らはまたも声をあげて泣き、弟嫁であるオルパは、別れの口づけをしました。
 しかし、ルツは、彼女にすがりついて離れませんでした。「あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」とナオミは言います。でもルツは「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私に仕向けないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように」(11617節)。ルツのうちにはしっかりとした主への信仰が育っていたのです。もはやナオミはそれ以上何も言いませんでした。

 二人がベツレへムに着くと、町じゅうが二人のことで騒ぎ出し、「まあ。ナオミではありませんか」と言いました。ナオミは「快い」という意味なので、ナオミは「私をナオミと呼ばないで、マラ(苦しみの意)と呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめにあわせられましたのに」。こう語ったのです。

 ベツレヘムに着いた頃は、大麦の刈り入れの始まった頃でした。貧しい者は落ち穂を拾う権利が認められていたのでナオミの嫁ルツは、ナオミに落ち穂拾いに出かけることを願いました。そして、ルツが行った畑ははからずもナオミの夫の親戚でエビメレクの一族に属する一人の有力者の畑であったのです。

 彼は、ボアズで、ルツに非常によくしてくれました。他の畑に行っていじめられないように、「ここで落ち穂を拾いなさい。喉が渇いたなら、水がめところに行って若者たちの飲んだのを飲みなさい」と言いました。そして、若い者たちに命じて、ルツに恥ずかしい思いをさせないように、あえて穂を抜き取って彼女が拾えるようにするよう、計らってくださいました。

 おかげで、その日ルツは大麦1エパほどを持ってしゅうとめのもとに帰りました。ボアズの畑で働いたことを知るとナオミは言います。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」(220節)

 こうしてルツは、大麦から小麦の刈り入れの終わるまで、ボアズのところの若い女の子のそばを離れないで落穂を集めてしゅうとめと暮らしました。

 ナオミは一連のことに神のみ手を感じて、ルツに知恵を授けます。ボアズが大麦をふるい分ける夜、体を洗って晴れ着をまとって、打ち場に下って行きなさい。ボアズが寝る所を見届けたら入って行き、その足の所をまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのなすべきことを教えてくれましょう。ルツは「私におっしゃることはみないたします」。こうして、その通りのことをしました。(316節)

 夜中になって、ボアズはびっくりして起き上がりました。なんと一人の女が自分の足の所に寝ていたのです。「あなたは誰か」と聞くボアズにルツは答えました。「私はあなたのはしためのルツです。あなたのおおいを拡げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親族ですから」。これは当時のプロポーズに当たる言葉です。これに対してボアズも誠心誠意を持った接し方をします。誰彼の見分けのつかない早朝、ボアズは大麦6杯を量ってルツに持たせます。(3815節)

 ボアズの前に一人の買い戻しの権利のある者がいるので、その者を呼び長老10人を招いて話します。「ナオミは私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。まずあなたに権利があるのでどうしますか」「買い戻しましょう」「しかしその場合、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません」と言うと、「私自身の相続地を損なうといけませんから、あなたが私に代わって買い戻してください」と自分の履物を脱いでボアズに渡しました。(418節)

 こうして、正式にボアズは土地と妻ルツを買い戻し、門にいた人々はみなそのことの証人として二人を祝福しました。そして、主が彼女をみごもらせたので、彼女は一人の男の子を産みました。(4913節)

 女たちはナオミに言いました。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」(414節)

 ナオミはその子をとり、胸に抱いて養い育て、近所の女たちは、その子にオベデと名をつけました。オベデは、ダビデの父エッサイの父です(41617節)。救い主の系図の中に、カナン人とモアブ人の血が入っているのです。

 このことから分かるように、たとえ「マラ(苦しみ)」と呼べることが許されても、イスラエルの神を愛し、従う者には、神は最善最高の祝福を与えられるのです。これが、私たちの信じている神のなさるみわざなのです。ルツはモアブ人でしたが、彼女は主に対する全き信頼と信仰を持っていたことを覚えておきましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2025年12月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年12月16日火曜日

 アドナイ・イルエ

 アブラハムという人物は神の器(奉仕者)で、知恵に満ち、誰にも増して神を恐れる人物でした。井戸で争いの絶えない身内のアビメレクに、「7頭の雌の子羊を分け、この井戸を私が掘ったという証拠として受け取ってください」と誓いを結び、こうしてそこをベエル・シェバと呼び、アブラハムは長い間このペリシテ人の地に滞在しました。

 『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』(創世記2212節)

 これは、人の命に関わるとんでもない仰せですが、この父子は、時を移さず従い始めます。翌朝早く、アブラハムはろばにくらをつけて、ふたりの若い者と息子イサクを連れて行き、全焼のいけにえのためのたきぎを割り、神がお告げになった場所へ出かけて行きました。3日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えました。

 『それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたの所に戻って来る」と言った。
 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
』(56節)

 イサクは言いました。「お父さん。」「何だ。イサク。」イサクは尋ねました。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

 もっともな問い掛けでしょう。しかしそれに対して、アブラハムはこう語りました。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に歩き続けました。二人で黙々と歩き続けることによって何らかの納得が、イサクの内にも目覚めてきたのではないかと思います。

 こうして、神がアブラハムに告げられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築きました。そして、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。今やイサクの命も露と消えようとしていました。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしたのです。

 「アブラハム。アブラハム。」
その時、主の使いが天から彼を呼びました。彼は答えました。「はい。ここにおります。」

 『御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄牛がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名つけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。』(1214節)

 こうして、死を恐れなかったアブラハムは、息子の命を得、信仰を受けました。私たちは、今に至るまで主の山には備えがあることの証人です。神を恐れましょう。
 教会が初期の頃、私たちは、ジョージ・ミュラーの信仰をわが信仰として、世界に出て行きました。ただ神のことばを信じて従う信仰によって、世界に出て行ったあの信仰を思い出しましょう。

 アドナイ・イルエ、この信仰は変わることがありません。

MIKOE NEWSから転載」 2025年12月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年12月2日火曜日

mana

 近所のご意見番のおじちゃんの勧めに従って、私たち近所の子どもたちは全員「鳴門聖母幼稚園」に進みました。みな結構そこを気に入っていて、私は特にそこにある絵本がお気に入りでした。アメリカ版の『天から降ってきたパン』のお話です。まんまるした大きなパンが毎日降ってくるなんて、なんて楽しいのだろう。天国のパンを食べられるなんて、なんていいのだろう。食べたいな。食べたいな。どのような味をしているのだろう。毎日天から降ってくるなんて、素敵だな。素敵だな。その大きなパンは私たちの食欲を大きくかき立てました。

 このパンは1人につき11オメルたっぷり与えられるという「マナ」であり、出エジプト記16章に書かれている「パン」であるのだと書かれています。クリーム味で好きなように調理できるとも書いています。その味を思ってみなうっとりしました。グラタンのように調味してもいいかなと思いました。蜜を入れたせんべいのようだとも書かれているし、どう調理してもおいしそうです。

 マナ、とは出エジプトの際に1カ月したころ、「食べるパンがない。われわれを殺すつもりか」と神に向かって民がつぶやいたところで、神が現された栄光、また、さばきであって、夜露のようにそれがイスラエルの民の宿営の上に降ったのです。それを、1人につき1オメルたっぷり集めるよう、神は定めてくださったのです。多く集めた者も、少なく集めた者も、測ったところそれは、1オメルであったのです。安息日の分は、その日の分と、その次の日とが前もって与えられました。安息日を聖く保つためです。

 よこしまな者たちは、安息日もこのパンを探しに出て行きましたが、それを見いだすことができず、また残しておいてはならないという教えに従わない者のマナには、虫がわき悪臭を放ちました。イスラエルの民は、牛や羊の群れと共に出エジプトしたわけですから、当然乳や凝乳にあずかってきたはずです。そのほかに、マナや肉を食いたいと叫んだその叫びは、主を怒らせるものでした。朝にはマナを、そして夕方になるとうずらが飛んできて宿営の回りに落ちて行くのです。

 主はこう語っておられます。「あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。」(出エジプト記1623節)

 それで彼らは、モーセの命じた通りに、それを朝まで取っておきましたが、それは臭くもならず、うじもわかなかったのです。イスラエル人は、カナンの地の境に来るまで、40年間これを食べ続けました。そして、それは、1オメルたっぷりイスラエルの子孫のために契約の箱の中に収められています。

 私はこのマナが結構広範囲に、また結構長期的に私たちの食事として食卓を潤したであろうと見ています。というのも、ある日、つきものが落ちたように、私たちが使っている「まな板」は実は「マナ板」ではないか、という考えが浮かんできたからです。マナを調理した板こそ、まな板の由来ではないかと思いました。

 日本人はマナを調理する器具として、この板の上でさまざまに料理し、それを食卓調理に使う「まな(マナ)板」と呼ぶのではないかと思っています。

 もしこれが本当だったら、受け継いできた日本料理のまな板を、さらにきれいにして受け継いでゆきたいと思います。文化とともに、継承とともに見えてくるものを大切にしていきましょう。イスラエルの10部族との関わりが見えてきそうで興味深いです。いわゆる日ユ同祖論も安易に否定することはできないのではないでしょうか?

MIKOE NEWSから転載」 2025年12月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年11月20日木曜日

汝の敵を愛せよ

 ふとしたことから病院に入院して、3カ月を越えました。その中で学んだことは実に多いものです。人間同士だから、当然そりの合う人も合わない人もいます。仕方のないことではあるでしょう。

 安静度の高い時には、すぐ隣にあるトイレにも看護師付き添いなしには行かれませんでした。人の前で排尿するというのは緊張して、そうなかなか尿が出せるものではありませんでした。すると、ペシッとお尻をたたかれて「目を覚ましなさい」と叱られました。それ以降、その人のやることなすことすべてが、私に対してあたかも「憎しみ」があるかのように思うようになりました。また、別な人は、目では笑っているが一つ一つの言葉の節々が厳しかったりもしました。他の看護師がやってくれることも、私が自分で行うようじっと待機して動くことはありません。

 ああ、嫌われているな、と私は思ったし、実際そうであったでしょう。私も、その人と距離を取っていたと思います。

 ある時、そんな人たちに対して、思い余って「わたしはあなたのことが嫌いです」と口にしようと思いました。宣戦布告です。しかし、主の御霊がそれを止めました。そして、「汝(なんじ=あなた)の敵を愛せよ」というキリストのことばを思い起こさせてくださいました。

 ルカの福音書6章に、キリストのことばとしてこのようなことばが書かれています。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。」(2728節)。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはなりません。そうすれば、自分も罪に定められません。(略)与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(3738節抜粋)

 そこで私は、怒りを捨て、彼女らの看護に対して、最大限の感謝をささげるようにしたのです。意識して、「ありがとうございます」「お世話になりました」と心を込めて口にするようにしました。

 すると、事態が変わってきたのです。ビジネスライクな言葉以外に「この薬は北野さんに合っているようだね」だとか「つらかったね」といった心通う会話ができるようになり、今では最も信頼のおける看護師さんの一人となっています。感情に任せず、主のことばに従っておいて、本当に良かったと思っています。
 たといどんなに腹に据えかねることがあっても、決して誰に対しても「あなたのことは嫌いです」などという言葉を口にするべきでありません。主がその人とあなたとの関係をどう変えてくださるか、私たちには分からないからです。

 同様に、人の心の裏側を読むことも避けたい事柄です。私自身がかつてはそういう人間でした。快い言葉も裏があるに違いないと思い警戒する人間でした。

 ところが、主イエスは聖書の中で「なぜ、むしろだまされていないのですか」(コリント人への手紙第一67節)ということばを残しています。仮に裏があったとしても自らを聖(きよ)く保つことは、警戒するより、はるかに徳の高いことです。裏切られてもむしろ信じることを選びましょう。隣人をやっつけることより、隣人を愛することを学びましょう。

 日本のことわざにも「負けるが勝ち」というものがあります。勝ち負けや損得に立っていること自体が既に敗北であるのです。「神は愛です」(ヨハネの手紙第一416節)。それゆえ、神の中にいる者は、愛の中にいるのです。

 神さまの愛は私たちの思いを越えてはるかに高いのです。ですから、愛を求め、愛を実践しましょう。神はあなたと共におられます。(コリント人への手紙第一1348節)

MIKOE NEWSから転載」 2025年11月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年11月14日金曜日

 ナースコール

 81日から、3カ月の予定で入院しました。一時私の安静度は高くて、24時間監視カメラに撮られて、ベッド上で体位を変えるだけで看護師が飛び込んできました。すぐ横にあるトイレも看護師なくしては使うことが許されません。

 私は、自分では自分は強いものだと思っていましたが、覆されました。若い女の子がにこにこしながら頻繁にナースコールを押し、かつ愛されているのを見て、本当に強い人というのはこの少女のような人をいうのだと、考えを改めました。

 トイレコールもぎりぎりまで我慢し、顔を洗うのも我慢し、歯磨きもベッド上で行い、したいようにはできません。そのうち、妄想が出て来て、自分は監視されている、管理されている、病院には裏の顔がある、と思うようになり、ベッド横にあるセンサーに「盗聴」の文字が浮かんでいるのを見るに至っては、ますますその確信を強めました。逃げたいと思っても、起きようとするだけでセンサーが作動するのです。神の手が重くのしかかっていました。

 よく、漬物を作る時、野菜に塩を入れて重しの石をのせて3カ月ほど置いておきます。すると水分が上がって来て、仕上がってゆくわけですが、私に起こったこともこれと同様で、新鮮野菜の私から漬物になった私へと神によって作り変えられた3カ月であったと思います。これから先私を食べる人(笑)は、私の味が変わったことを知るでしょう。

 10月末に試験外泊をして、いよいよセンサーも外され楽になりました。しかし、本当につらい3カ月でした。

 この中で学んだことがあります。それは、老いについてです。若いつもりが私も還暦を迎え、立派なおばあちゃんになりました。年を取るということは、人の手を借りるということです。人の手を借りるには、病院や施設の規則を守らなければなりません。好きなように生きてきた時の生き方を捨てる覚悟が私たちに持てるでしょうか。ナースコールを押すためらいを捨てて、介助を受けられるでしょうか。ある人にとってこれはたやすいことでしょうが、私はナースコールが鳴るたびに、びくびくしておびえていました。だからこそ、ナースコールを押せる人こそ本当に強い人なのだな、と思うに至ったわけです。自分を誰かに委ねるということを意識し、決意していないと、いきなり人の手を借りる事態になると大変な苦しみとなることが目に見えています。

 みな、どのように死んでゆくのでしょうか。人の目に触れない施設や病院、またナースコールさえない所で、死への尊厳なくして、この世を去っていく人がいかに多いかということを私は知りました。年を取った人ほど、尊厳が必要なはずです。しかし、これを語る人は多くはありません。いっそ死んだほうがましだと思っても、その死すら逃げて行くようにすら思えます。それゆえ、マザーテレサは「死を待つ人の家」を立ち上げたのです。

 生きていくことは、何より大切なことです。だからこそ、老いに備える必要があるのかもしれません。気力体力が失われ、何の喜びもないという人生が来る前に、また家族の顔すら忘れてしまうような病が始まる前に、天国へ行く備えをしてください。主イエス・キリストの名を呼び、救いを受けましょう。

 栄華を極めたソロモンが書いた『伝道者の書』に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、【何の喜びの日もない】と言う年月が近づく前に」(121節)という一節があります。老いが進めば、自分が自分であることさえ分からなくなります。

 あなたが労苦して蓄えたものを誰かが持っていきます。あなたが軽んじていた者が、あなたに横柄になり、あなたを粗末に扱うことすらあるでしょう。その中で信仰だけが、あなたを支えるつえです。神に信頼する以外、頼りになるものはないと思います。

 詩篇71篇の作者は、こう叫んでいます。「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」(9節)。「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」(18節)

 介護する側の大変さは想像に難くありません。しかし、介護を受ける側として備えていかなければならないものもまた老いには伴うと知ってください。

 主イエス・キリストの救いこそ人生最大の備えです。救いを受け取り、人生の最大の備え、支えを得ましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2025年11月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年10月1日水曜日

地上で最後に救われた男

 その日、ヘロデ王とピラトは仲良くなりました。共通の敵イエス・キリストを見いだしたからです。ヘロデは、イエスから何らかの奇跡を見せてもらいたいと思っていましたが、イエスは、彼に何もお答えになりませんでした。
 それどころか、ヘロデは自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、嘲弄(ちょうろう)した挙げ句、派手な衣を着せて、ピラトに送り返しました。

 並行記事によれば、「総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。『ユダヤ人の王さま。ばんざい。』 また、彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。」(マタイの福音書272731節)と書かれています。

 同38節では、イエスとともに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた様子を記しています。
 「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救って見ろ。十字架から降りて来い。』」(3940節)
 「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」(44節)

 その時、「十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた」という記事が、マタイの福音書にもルカの福音書にも記載されています。
 「太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた」(ルカの福音書2345節)ということが起こり、イエスは大声で叫んで言われたのです。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(46節)と。そして、息を引き取られました。

 ところが、この時、私たちにとって大きな希望となることが起こっていたのです。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人がこんなことを言い出すのです。
 「『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』」(ルカの福音書234042節)

 「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(43節)

 彼が、キリストに救われたキリストの地上の生涯最後の男と言ってもよいでしょう。「今日、わたしとともにパラダイスにいる」と約束されたイエスのご愛の深さ、そして今成し遂げようとしている救いの完全さを思いませんか。

 そしてこれは、ギリギリの救いでした。まさに主イエスが息を引き取る前の出来事だったのです。

 何が彼を改心させたのか、それは聖書には書いていません。しかし、人類の罪を負って十字架の苦しみを担われた主を見て、私たちとこのお方は違うと彼に分かったのではないでしょうか。そして、この方は本物だという確信を得たのではないでしょうか。

 苦しみの中にも、主イエスは、救いのことばを下さいました。息絶える寸前です。へりくだって、主に求めるなら、主は、救いとなることばを下さいます。罪人にとって、これは、思う以上のことばだったでしょう。「今日、わたしとともにパラダイスにいる」。これは、赦された以上のことばだったのです。

 受難のしもべ、イエスを信じましょう。神と私たちを隔てていた至聖所と聖所の幕は上から裂けました。イエスは、真の聖所の道を確かに開かれたのです。だれでもこのイエスを自分の救い主として受け入れるなら、その人には直ちに永遠のいのちが約束されるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年10月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年9月24日水曜日

 老いと向かう

 「60歳にしては若いわね。つやつやの髪。まだまだ染めなくても大丈夫よ」と美容室でほめられた私ではあるが、そろそろ白髪をどうにかしなければならない、と思い始めている。

 老いは残酷だとやはり思う。若さのまぶしさを、力みなぎる様子を、私が過去に持っていた若さの可能性を、この年になって強く意識するようになった。

 顧みて、自分は顔にシミができ、風呂場で見る自分の体形も崩れ始めている。孫がいるのだから、おばあちゃんで当然だけれど、これから先、つえ無しで歩けなくなるのか、おむつのお世話になるのだろうか、そこまでして、どうして生きなければならないのか。私には、その答えがない。

 みんなどうやって生きているのだろう。あきらめているのか? 希望を持っているのか? それとも、自然と老いに対してまひしていくのか。

 そのどれもが正解かもしれない。不思議なのは、老いを悲観して死んだ人のことを聞かないことだ。むしろ、老人は、1日でも多く生きたい、そう思うようである。老いること以上に、命が大切だと老人は知っている。だから、身体のある部分を修繕してでも、生きる機能を保ち、生きるのだ。

 若さ以上に大切なもの、それが命だと老人は知っている。老いることをみっともないと考える私は、しょせん外見しか見ていないのだろう。老いに対する努力、生きることへの戦い、神の前にそれはいかに尊いものだろうか。

 私の夫は「よぼよぼになっても美しい人はいる」と言う。「内面の美しさこそ、年を取った人の美しさだ」と言う。「そんな人になりなさい」とも言った。しわしわになって、白髪になって、どうして美しいといえるの? 相変わらず、私は問うた。花であっても盛りを越えると無残に朽ちるじゃないか。美しく朽ちていくことなんてあるわけない。朽ちた花のどこがきれいなの? がぜん反対した。

 ただ考えられるのは、盛りを迎えたからこそ、「朽ちても後悔なし」と言えるということだ。次の世に向かって、死に向かって、迷いなく生きることはできるだろう。これが、もしかすれば、内面の美しさをたたえた老人の姿なのかもしれない。

 私は、最後まで生きようとする老人の姿を知っている。彼らは決して諦めない。1日でも長く生きるためにすべてをかける。これはこれで、評価されるべきことではないかと思う。彼らは、命(死)の先にある国、天国に向かおうとしているのだ。そこに行くために、残された11日を本当に大切に生きている。1日でも長くこの世に生きようとしている。

 永遠という世界に、彼らは向かおうとしているのだ。顔のシミや白髪は、永遠の前には小さなものだ。残る人生を神の前にどう生きるかこそが、より大事なことではないだろうか。シミや白髪はむしろ神の時が近づいていることを教えてくれるものなのだ。

 キリストを知った者としての確信が、年老いながら内側からの美しさとして私たちを輝かせることがあるのだろうか。天国の前味を知った者としての美しさを放つことがあるなら、そうありたい、と私も思う。

 主も、年を取ったからといって私たちを捨てられない。イザヤ書46章にはこう書かれている。「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(34節)

 さらに、みことばは教える。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書4031節)

 胎内にいる時から、しらがになっても、主は変わることなく、いつまでも私たちを運んでくださるという。また、主を待ち望むなら、たとい老いても、鷲のように翼をかって上り、走ってたゆむことも歩いて疲れることも無い力が与えられるというこの約束を、主のことばとして信じていきたいと思う。主を待ち望む時に主が力を与えてくださることを信じることが、私の老いへの答えとなった。

 御国に行くその日まで、主は担ってくださる。背負ってくださる。運んでくださる。この主に信頼することが、内面の美しさとして現されることを求め始めている。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年9月17日水曜日

 TAMANAの奇跡

 最近起こった神さまの素晴らしいみわざをお分かちしたいと思います。それは、自動車に乗っていた時、虹を見たところから始まりました。こういう時、往々にして特別な神さまのご計画が始まるのです。

 ちょうど、西ヨーロッパのワードオブライフという宣教団体から数名の若い方々が日本に来られました。彼らは、ご自分の国で、日本の宣教のために熱心に祈りを重ねておられました。すると、祈りの中で彼らは「TAMANA」という言葉を捉えたのです。「TAMANA」に何かある。「TAMANA」に主のみこころがある、彼らはそう捉えました。
 彼らは最初に「YOKOSHIMA」という言葉が思いに浮かんだそうですが、調べたところそれが「TAMANA」、すなわち日本の熊本県玉名市にある横島町という地名だと分かりました。それで玉名市のいくつかのキリスト教会に連絡をしたのですが、どこからも返事がありませんでした。しかし、連絡はついていないけれども、とにかく日本に行って、トイレ掃除でも何でも良いから「TAMANA」で働いて主のみこころを行いたい。そういう意識を持って、彼らは日本に来て、私たちのTLEA教会にやって来ました。

 するとどうでしょう。私たちTLEAには、九州に「TLEA玉名教会」があるのです。彼らの驚きは非常なものでした。神のことばどおり「玉名」に奉仕できる教会があることを早速、本国に伝え、主をあがめました。そして、彼らは期待を持って「玉名教会」に向かったのです。

 もう一人、この件で感動した人物がいます。それは、「玉名教会」のI牧師です。I牧師は、ずっと神の働きのための助け手が与えられるよう祈ってこられたのです。I牧師の奥様は、お体がご不自由で車椅子の生活をなされています。まさに、お二人は、宣教を助けてくれる方を求めておられました。

 普通、それは近所で与えられるのではないか、というのが私などの浅はかな考えです。ところが、このI牧師の祈りは主に届いて聞かれました。主はこの祈りの答えを何と日本をはるかに超えたヨーロッパから起こされたのです。本当に、私は驚きました。

 神には、場所の制限などないのだということを、学びました。世界全体で主は働きをなしておられるのです。

 かつてある賛美の器が、祈りの中で「長崎」ということばを聞きました。主が遣わされる場所を主がその人に「語る」ということはあるのです。これは、本当に神から来たかどうかを、しっかりと吟味し、そうであるなら、堅く握ってください。そうすれば、神のご計画のその時に必ず成就することでしょう。

 「TAMANA」は、全国的に名が知れ渡っている地名かといえば、決してそうではありません。でも、心を尽くして神の前に祈っていた方がおられたのです。そして、主もその祈りを聞いてくださっていたのです。

 このことを通して、私たちも学びましょう。祈りは聞かれることと、時に思いもよらない所から祈りの答えが来ることを。今回は地球の端から、答えがやって来たのです。

 ゼカリヤ書で、このような約束のことばがあります。「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。」(99節)

 また、マタイの福音書にはこう書かれています。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(778節)

 これは、求め続けるという継続を表すことばで書かれたものです。求め続け、捜し続け、たたき続けるなら、必ず開かれるとイエスさまはおっしゃっているのです。

 忍耐を持って、祈り続けましょう。信じることをやめてはなりません。時が満ちたら、私たちは必ず、祈りの答えを見ます。「TAMANA」の奇跡を覚えて、あなたも主に求めましょう。祈りを聞かれる方がおられることを、生ける神の現実を、私たちはこのことを通して学びました。主に信頼する者は決して失望に終わることがありません。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年9月10日水曜日

熱いか冷たいか どちらかであれ

 ヨハネの黙示録3章に、ラオデキヤの教会に向けて書かれた神のことばがあります。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」(15節)

 その通りです。神さまは、生ぬるいのより、熱いか冷たいかはっきりした姿勢を望まれます。

 代表的な人物と言えば、パウロでしょう。彼は、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司の所に行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼み、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るまで、信者を捕え引きずり出す権限を得て、熱心にその働きを行っていました。まさに行っていることは神に敵対することでした。(使徒912節参照)

 ところが、神はパウロをあわれまれたのです。ダマスコの近くまで来た時、突然天からの光が彼を巡り照らしました。彼は、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」というイエスの声を聞きました。2614節によれば「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」という声さえ聞いています。

 主に出会って、サウロ(パウロ)は一変します。「彼は、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」「彼が私の名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」と主は語られました。(91516節)

 コリント人への手紙第二11章には、パウロが受けた困難の数々が記されています。39のむちを受けたこと、石打ちに遭ったこと、一昼夜、海上を漂ったことなど、並大抵ではない労苦を重ねています。パウロの人生は、イエス・キリストにあって180度変えられたのです。主に反する者から、主の器へと、神は彼を変えてくださいました。あれほど、主に敵対したものが、主の器に、主の使徒へと変えられたのです。たとえご自身に敵対していても、決して生ぬるくはない、ある真実を、主はパウロという人間に見ていてくださったのでしょう。

 チェコのS宣教師は、ある時「この群れから脱会します」という連絡を私たちに送ってこられました。私たちの教会を悪く言う者たちが、S宣教師に入れ知恵をしたようで、私たちは心配しました。特に「脱会」という言葉が重く響き、私たちは祈るとともに、帰って来られるよう求め始めました。そして、A牧師は、「サリーさんは必ず帰って来る」とおっしゃったのです。

 そして、およそ7年でしょうか。S宣教師は悔い改めて戻って来られ、再び群れの宣教師として立つことを許され、その働きを始められました。

 素晴らしいことに、S宣教師が復帰してからの働きは、脱会に至る前までの働きをはるかに上回っているように感じます。神は、これまで以上にS宣教師を用いておられるのです。ウェブコンサートという新しい働きが始まり、東ヨーロッパの働きが幾段にも進みました。さらに、主はS宣教師ご夫妻を用いようとされているように思えます。

 たとえ、主の前につまずくことがあっても、立ち返り主に戻るなら、その問題をはるかに超えた大きな働きを任せてくださいます。主は必ずあなたを用いてくださるのです。神さまとは、そういうお方なのです。

 そういうわけで、私たちは、熱いか冷たいかどちらかでありなさい、という神の声に聞きましょう。そして当然、熱い者でありましょう。パリサイ人で迫害者であったパウロは、主に出会い、キリストのためにいのちをささげ、殉教していきました。熱い人生を歩んでいたパウロだからこそ、神は真理の道へ導かれたのでしょうか。その人生は大きく変わりました。人生はすべて、神が私たちを捕えてくださるものなのです。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年9月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2025年9月5日金曜日

 大切な方を天国へ送った方へ

 誰でも、いつかは天に召され、地上での別れを体験するものです。故人を愛していた者にとって深い悲しみを覚えることもあるでしょう。

 私は、父を肝臓がんで亡くしました。車椅子でも良い、どんな形でも良いから一日でも長く生きていてほしいとずっと思っていました。しかし、どんどんがんは進行しました。治療するのですが常にがんに先手を取られました。がんはどんどん進行し、本当に悔しい思いをしました。

 肝臓がんの末期は、厳しいものです。最後にはおびただしい下血が訪れました。水道水をひねるようなひどい下血が訪れた時、もう駄目だと母は思ったそうです。全身の血が崩壊したような状態になったといいます。吐血ではなく、下血であったことが不幸中の幸いといえば幸いでした。しかし、失血してしばらくすると、いよいよ別れが始まってきました。父に、チェーンストークス呼吸が始まったのです。父は、懸命に呼吸し負けまいとするところを見せてくれました。私たちは、父のもとに立って、一人一人「ありがとう、お父さん。お父さんの子であってよかった。やがて私も後から天国に行くからね。」などとあいさつしました。父はちゃんと聞いてくれていたと思います。

 最期には、父は二人の御使いを見ていたようです。身体を傾け「もう少し生きることをお許しください。」「何とかお願いします。」「どうしても生きたいのです」と3度求めて、しかし、「もう、あなたの地上の時は終わっている」と聞き入れられることはありませんでした。3度求めて聞き入れなかった時、父は「分かりました。」と身体を戻しました。その瞬間瞳孔が開いたのです。父は御使いに両側から抱えられるようにして天に旅立ちました。こういうわけで、父が天国にいることに疑いはありません。しかし、いなくなった父への寂しさはなくなりません。その時、読んだのがマタイの福音書です。

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイの福音書61920節)

 これを読んで、本来の聖書解釈を超えて、父が天にいることが最善だと分かったのです。自分の宝とは、私にとって父のことでもあったからです。これ以上、父が病んだままで地上にいるなら、がんという虫が来て、さびが出て、傷もののままなのです。さらに損なわれることも起こるでしょう。

 だから、大切な人を天にたくわえること、つまり天に送ることはより優れたことなのです。確かに、寂しさはあるでしょうが、天に大切なその人を送るなら、もはや病も朽ちていくものもありません。天国は最善の場所なのです。

 アンデルセンの物語で、子どもを死神に連れ去られたお母さんが、子どもを追いかけて、子守歌を歌うことを引き換えに、また、いばらで胸から血を流すことを引き換えに、さらに、二つの目を引き換えに、湖を渡り、ようやく子どもの所に、死神の住まう所にたどり着きました。子どもの命である二つの花を引き抜こうとした時、死神は、手を出してはいけないと言い、二つの人生を見せました。その時、地上において苦しい道を行く子どもの姿と、天国で慰められている子どもの姿を見せられ、どちらを選ぶのか、と問われたという話があります。お母さんは、答えられず結局、この子のために一番いいようにしてください、と答えるにとどまったそうです。

 何が幸せかということは、そうそう判断できるものではないでしょう。しかし、「宝」すなわち、「大切なものは天にたくわえなさい」という神のことばには、聞くものがあると思います。

 もし、愛する人を亡くした方がおられるなら、天国でその方と再会することを喜びとしてください。その方が、既に天にいるなら、さらなる希望を持ってください。天は最善の場所であるからです。

 私は、父が天国に行ったことで、病の傷や痛みがいやされていることを信じています。地上ではがんでつらい思いをしましたが、天国において慰めを受けているのではないでしょうか。天国は最高の場所です。

 ただ、イエス・キリストを主として信じるだけで、あなたも天国に行くことができます。例え、私たちのこの世の命が尽きたとしても、天国にて永遠に生きることを許され、そして天において、先に天に行った人たちと再会することができます。それも生きて再会するのです。

 天の御国に望みを置く時、私たちが失うものは、何一つないのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年8月27日水曜日

 信仰の歩み~私の献身

 大学を卒業した時、中学校の教員に採用されました。父は大喜びで祝ってくれましたが、私の心は決まっていました。教員になるのではなく、神学校に進み、牧師になりたいという願いが強くあったのです。

 だんだんと時期が過ぎ、ついにある日、父に「私は、教師にはなりません。神学校に行き、牧師を目指します。」と打ち明けました。父もうすうす気づいていたでしょう。案の定、怒り、こう言いました。「今、着ている物だけは許してやる。しかし、他の物はみな俺が買い与えた物だ。身一つで出て行け。」

 「ありがとうございます。」。深々とお辞儀をして、父からの勘当を受けました。それは、信仰の歩みのスタートでした。経済もなく、住む家もなく、無茶なことを若さに任せて行ったものだと思います。

 マタイの福音書14章が、その時の私を支えてくれたみことばです。まず、27節に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」というイエスさまのことばがありました。これは、神から来ていると、恐れるなと、イエスさまは語ってくださいました。

 次に、経済の満たしをどうすればよいかですが、クレイジーなのは承知ですが、まさにペテロと同じことを主に求めました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(28節)

 奇跡を主に求めたのです。しかも、主のことばとして、水の上を歩けということばを求めたのです。イエスさまが、水の上を歩けとおっしゃったなら、歩ける。そう信じたのです。お金もない私が生きて行けるしるしを求めました。おぼれて失敗することなく、自然現象に反することが、イエスのことばによって起きるでしょうか。

 イエスさまは、「来なさい。」と言ってくださいました。「そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(29節)。何と奇跡が起こったのです。これは、私にとって大きな慰めでした。奇跡が起こるということが書いてあるのですから。

 「ところが、(ペテロは)風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。」(30節)。イエスさまから目を離し、風を、現実を見てしまったペテロは、信仰の世界から現実の世界に戻るのです。するともう、みことばには立てず、現実のままに沈みかけたのです。

 「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」(31節)。「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。」(32節)

 神の約束のことば以外何も持っていない私が生きて行けるのか、それは、イエスのことばを信じて水の上を歩くようなものでした。しかし、「できる」とイエスさまは、ペテロを通して語ってくださいました。

 しかし、ペテロはすぐに沈んでいったのです。けれども、私の友人は、「沈みかけた時イエスさまはすぐに手を伸ばして、彼をつかんでくださったではないか。溺れないよう直ちに助けてくださったではないか。信仰の歩みが破綻しそうな時、その時にはイエスさまは直ちに手を入れてくださるのだよ」と私を励ましてくれました。

 それで、勇気を得て、水の上を歩く人生を始めることにしました。神が献身を導かれたのだから、ということで祈りだけで生活の糧を求めました。また、正直に祈りました。「体力がありません。軽い仕事で時給の良い仕事をください」。すると、一件の電話がかかってきて、予備校の教師の職が与えられたのです。十分ではありませんが、水の上を歩く生活はすることができました。

 そして、1年もたたないうちに結婚が導かれ、さらに1年後には牧師夫人となっていました。信仰の歩みは、不確かなもののように見えますが、これほど確かなものはありません。確かに、神は、主イエスは、私たちを支えてくださっているのです。

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル人への手紙116節)

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年8月20日水曜日

 医者を必要とする者

 次女が、おなかの中にいた時、入院していた病院から56分離れた教会に礼拝出席しようとしたところ、看護師の方々に「無理です。よしなさい」と止められました。それで、聖書を開けてみるとルカの福音書5章から「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(31節)というみことばが示されました。これは、どういう意味だろうと考え込みました。今なら、入院している病人なのだから、礼拝はお休みしなさいという意味に受け取ることもできるみことばだと分かります。

 ところが、「私は、病人かしら?」とか「お産は病気じゃないわね」とかすっかり惑わされ、神のことばに聞くことができず、礼拝を強行しました。すると、教会からの帰りに出血してしまい、切迫流産で絶対安静を言い渡されました。こんなにはっきりとみことばから語られていたのに、愚かだったと反省しました。

 世の中には、医者を必要とする人々がいます。病人です。医師の治療によらないでは生きることもできない人もいるのです。反対に先ほどのみことばにあるように、丈夫な人というのもまたいます。これらの人には、医者は必要ありません。自分で生きていけます。しかし、私のように医師を必要とする者もまたいるのです。

 イエスさまは、このたとえで、ご自身が医師であることを語っておられるのです。ご自身なくしては生きていけない者たちをご存じなのです。それは、病気に限ったことではありません。もちろん、イエスさまは病をいやしてくださり、医者のような働きをなさいました。しかし、イエスさまが語ろうとしているところは、もっと広いのです。

 ルカの福音書532節にこう書かれています。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」。また、マタイの福音書では「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」とも書かれています(913節)。

 イエス・キリストは、罪人の主となるために来られたお方です。罪人であるということを知った人々を悔い改めさせ、正しい道に歩ませるために、主イエスは来られたのです。イエスのあわれみは深いのです。罪人をさげすまれません。罪人の医者として、罪の縄目から解放してくださいます。ご自身おっしゃる通り、罪人を招くために来られたのです。

 ヨハネの福音書8章に、姦淫の場で捕らえられた女のことが取り上げられています。律法学者とパリサイ人は、「モーセの律法ではこういう女は石打ちにするよう命じていますが、あなたは何と言われますか」(5節)とイエスに問いました。イエスは、相手をしませんでしたが、彼らがあまりにも問い続けて止めなかったので、一言こう言いました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)

 年長者から始めて一人一人出て行き、イエスさま一人が残されました。イエスさまは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)と女におっしゃいました。

 こうして、主イエスは罪を赦すという働きをなさっていました。どんな罪も、イエスさまが赦されない罪はないでしょう。赦し、悔い改めさせ、正しい生き方を取り戻させるために、イエスさまは、来られたのです。これが、イエスさまが医者だという理由です。

 ただ、気になるのは「正しい人」です。「正しい人を招くためではなく」(ルカの福音書532節)、と主イエスは言われましたが、果たして「正しい人」なんているのか、それが私の疑問です。「正しい」と思っている人は、イエスの元に来ないでしょう。ですから、「罪人」の自覚を持っている人は、「正しい」人以上に赦され祝福されています。

 「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」というこの主イエスの恵みをしっかりと心に留めましょう。

 自分を罪人と認める人、自分の弱さを知る人、そして主の元に来る人を主は赦し、助け、用いてくださるのです。病人とは無力で、とにかく医師に頼るしかありません。私たちも、罪に無力な者ですが、イエスさまが私たちをあわれみをもって救い出してくださいます。罪人の主と語られた主は、私たちを悔い改めさせ、神に立ち返させるために世に来られたのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年8月13日水曜日

イザヤの召命

 イザヤ書6章で、イザヤは神々しいまでの幻を見ました。彼は高く上げられた王座に座している主を見ました。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていました。セラフィムにはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛んでおり、互いに呼び交わして言っています。

 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。

 「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」。4節にはこう書かれています。圧倒的な主のきよさとご臨在をイザヤは見たのでしょう。

 すると、イザヤは言います。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。

 この一文は、原語ではさらに激しい嘆きであるといいます。「ああ、私にはもう望みがない。私は、最低だ。どうすることもできない汚れたものだ。人々は皆神の前に汚れており、私もまた汚れたものだ。ああ、どうして、神の前に立つことができようか。私はもうおしまいだ。私はわざわいだ。」。そんな激しい慟哭なのだそうです。イザヤは神の幻を見たことによって徹底して激しく打ちのめされました。おのれの汚れ、また罪を、王座に座しておられる主を見たことによって、激しく意識したのでしょう。主の前にとても立てない自分を意識しました。

 しかし、イザヤに望みがありました。67節にはこう書かれています。「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖(あがな)われた。』

 神は、燃えさかる炭をセラフィムを遣わして、汚れに満ちたイザヤの口に触れさせました。そのことによって不義に満ち、どうしようもなく汚れて、罪に満ちたイザヤのくちびるは贖(あがな)われたのです。

 その時、イザヤは主の声を聞きます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう

 そこでイザヤは、声を聞いて応答します。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」。すると、主はイザヤに「行って、この民に言え。」から始まることばを下さり、イザヤを預言者として用い始めてくださったのです。

 イザヤが立てられるまで、彼がどん底と言えるような所を通ったことを忘れないでください。大きな働きの前に神は、しもべを本当に低くされます。いかに自分が汚れた者か教えられるのです。

 イザヤは自分に絶望していました。しかし、それが神のご計画であり、恵みであったのです。神は祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭をもって、イザヤの口に触れたのです。それによって、イザヤの不義は取り去られ、罪も贖われました。そして、預言者として応答することができました。

 どんなに自分に絶望することがあっても、唇の汚れた者であっても、神は神の方法をもって、ここでは炭を持ってきよめてくださいました。私たちも、この目で神を見る時、その聖なる姿に、もう自分は駄目だ、とどん底に下る時があります。とことん低くされますが、実はそれこそが神の召命であり、神はそれを通して私たちを立て上げてくださるのです。

 イザヤは、働きに立つ前にとことん自分の汚れを見せられました。しかし、神は、そのイザヤをきよめてくださり、召し出すことばを下さったのです。ですからあなたも、とことん自分に失望する時、その時こそ、神の召命の時と知りましょう。

 神は低くされたあなたを、神の御前で高く用いてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年8月6日水曜日

 教会のとりなしの祈り

 先日、親しい方々と近況を分かち合いました。私の順番が来た時、87歳になる母のことを話しました。少し認知症的なものを感じる状態です。よく忘れるし、毎晩読んでいる詩篇においても、以前は感想を述べていたのに、黙っていることが多くなりました。分かっているのかどうか、判断に苦しみました。また、急に怒りっぽくなったり、他にも冷蔵庫を開けて食物を取ることもしていないそうです。老いは誰もが通る道。でも、いつまでも壮健でいてほしいものです。最低限の生活が自力でできるよう求めました。

 すると何名もの方が尋ねてくださり、「お母さんはどうですか?」と声を掛けてくださったのです。「お母さんにはお世話になったから」と言ってくださる方もいて、母のことを心にかけてくれました。そして、祈りをささげてくださったのです。

 びっくりしたのは私です。それ以降、母の認知の症状がはっきりと良くなったのです。詩篇を読むと、以前のように、「ほんと、詩篇には力があるわね」と言い始めたのです。「このことについてはどう思う?」という問いに関しても、「こうしたらどう?」という答えが返ってくるようになりました。

 これは、とりなしの祈りの力、教会の祈りの力であると思います。神は、私たちの祈りを地に落とすことはされないのです。必ず、祈りは、芽が出て成長し、実を結ぶのです。母の一件を通して私は祈りの力を学びました。

 これは、奇跡だと思います。とても思いもできなかったほど明瞭な意識が与えられているのです。祈りが奇跡を起こしました。教会の祈りには、大きな力があるのです。

 使徒の働き12章には、興味深い記述があります。ヘロデ王がヤコブを殺した後、次にペテロを捕えて牢(ろう)に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させました。(中略)こうしてペテロは牢に閉じ込められていて、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていました。

 「ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。

 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

 そして、御使いが、『帯を締めて、くつをはきなさい』と言うので、彼はそのとおりにした。すると、『上着を着て、私について来なさい』と言った。

 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。

 そのとき、ペテロは我(われ)に返って言った。『今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。』

 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」(使徒の働き122節~12節)

 聖書の中でも、これほど教会の祈りが聞かれた例は特筆されるべきものでしょう。教会のとりなしの祈りを通して、神は御使いを送り、奇跡の手をもって、祈られていた通りに、神はペテロを助けられたのです。

 祈りには力があります。祈りは神の手を動かします。また特に、教会の信者たちが心を一つにして祈るその祈りは必ず応えられます。祈りは気休めなどではありません。奇跡が起こるのです。祈りは強力な確かな武器なのです。祈りが満ちる時、御使いさえも差し向けてくださるほど、神は私たちの心からの祈りと願いに応えてくださるのです。

 あなたのとりなしの祈りも、必ず聞かれると知ってください。それゆえ、信じ祈りましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年8月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年7月30日水曜日

宗教

 今、若い子たちの間で、一種の宗教ブームが来ていると言われています。思い起こせば、15歳の時に、母の代理として某新興宗教の総本山に行かされたことがあります。当時の私は、宗教を馬鹿にして「いわしの頭も信心から」という言葉から、何を信じても大差ないんだ、信仰心こそが尊いんだ、という考えを持っていました。

 それで、私も悩みを持つ身、これを機会にこの宗教でいいから信じてみようか、という気になりました。まったくの初心者は、それでも3千人ほどいました。そして、その5日余りの間に、私は劇的な変化を遂げました。椅子の上に立って、数珠を上げて繰り返し叫ぶのですが、私も皆とともに、数珠を上げて大声で叫んでいました。キリスト教で言えば、アーメンというタイミングでしょうか。特別な熱狂がありました。

 また、宗教的所作を一から教えられました。ご本尊に向けて足を向けてはならない。ご本尊とその部屋は尊い。だから、ソックスを履いてはならない、などと教えられるといかにも宗教的だと驚きました。しかも、真面目に、同世代の者が心からそれを行っているのを見ると、言い知れぬ興味が湧きました。何でここまで信じられるのだろう。私と彼らは違う。何が違うのだろう、と思うに至ると、かえってもっとこの宗教を知りたいと思うようになりました。

 お勤めばかりでなく、ディスコで楽しむ機会があったり、日の出に向かって、題目を唱えて行進するということもありました。私自体は、おどろおどろしい襷(たすき)を身に着けるのは嫌いでしたし、数珠は宗教的で持つにも抵抗がありました。あくまで母の代理で来たのですが、熱狂させる力にのまれてしまいました。

 それは、宗教の力、宗教の霊であったと思います。それに引かれて、多くの者が今、新興宗教・他宗教に足を踏み入れているのではないでしょうか。信じる力、信じることによる帰依の力、こういうものが多くの人にとって魅力となっているのではないでしょうか。宗教によって縛られることさえ、ありがたいことだと思っているかもしれません。

 しかし、それでよいのでしょうか。信じ熱狂することは、人生に強い刺激を与えますが、信じることにおいて大切なのは「何を信じるか」ではないでしょうか。救いのない信仰は、命の終わりとともに散っていきます。「いわしの頭も信心」からではなく、信じるに足るべきものを信じることこそ永遠のいのちに関わるのです。

 私たちクリスチャンは、「イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったこと。そして、罪が赦されたことを証しして、死者の中から3日目によみがえられたこと。40日間弟子たちとともに過ごされ、目の前で召天されたこと」を信じています。そしてやがて、世の終わりには、おのおの生前になしたところにしたがって、さばきを受けること。しかし、イエス・キリストを信じた者はそのさばきから免れることを、聖書に書かれた通りに信じています。

 主イエス・キリスト以外に救いはありません。聖書にも「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒の働き412節)と書かれています。

 たとい宗教の熱狂があったとしても、救いがなければそれは花火のように一時を照らす光です。しかし、イエス・キリストのうちには、永遠のいのち、まことの光があります。真理は、幾つもあるものではありません。真理は一つ。イエス・キリストご自身なのです。

 私が新興宗教で渡されたお経は、内容が支離滅裂でした。どこかの王国の話のようですが読んでもつじつまが合いません。そこで質問すると、お経はありがたいものなので理解するものではありません、と諭されてしまいました。でも、これでよいのでしょうか? 非常に宗教的な答えですが、バイブル(聖書)は、誤りなき神のことば、いのちのことばです。多くの神の奇跡がこの神のことばを通して現されています。キリスト教には、真理があるのです。神のことばは、いのちなのです。聖書には読んで分からないことなど書かれていません。

 どうか、宗教ではなく、真理に来てください。熱狂ではなくキリストとの出会いを求めてください。主イエスが与えてくださるのは「救い」です。それゆえ、聖書を読んでくださるようお勧めいたします。神のことばは、静かにあなたに触れ、あなたに生きる力を与えるものだからです。あなたを変える力、不可能を可能にする力が、神のことばにはあります。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年7月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2025年7月23日水曜日

 

 先日、白馬キャンプ会場で、のどの具合の悪そうなM牧師に貼り薬を差し上げたところ、講壇から「愛を感じました」とおっしゃられたのを聞いて、新鮮な驚きを感じました。人の愛を感じやすい方なのだな、と。これはM牧師の美徳でしょう。

 初めてスプレンダーがデビューした時、私は正直なところ恥ずかしかったです。音楽を専門に学んだわけでもなく、ダンスを学んだわけでもない、その人が前に立って導いているのです。ドキドキして、正視できませんでした。しかし、今や神は牧師を30万人の前で指揮を執り、躍る者としてくださいました。また、若い頃、ディスコで鍛えたという踊りも堂に行ってきて、専門家の那須さんからも、かっこいいとお褒めを頂きました。神がM牧師を本当に愛しておられるのを感じました。M牧師が神さまを「天の御国のお父さま」と日々呼んで、愛しておられるからでしょう。子どものように。

 マタイの福音書53節に有名なイエスさまのおことばがあります。それは「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」というものです。私たちは、「心の貧しい者」でしょうか。この「心の貧しい者」という語には二つの意味が考えられます。一つは、オーソドックスな解釈で「心の豊かさに飢え渇いている者」という意味です。心の豊かさに飢え渇く思いを持つ者には、神が応えて豊かに心を満たしてくださるという解釈がなされます。

 しかし、今回、私は文字通り「心の貧しいものは幸い」と読んでいきたいと思います。心に何にも持たない貧しい人と、心に多くの要らないものを抱えて、豊かなのか自由が利かないのか分からない人がいます。神はへりくだった者を愛し、心の貧しさを愛されます。それゆえ、パリサイ人、律法学者を嫌われました。彼らのしきたり、言い伝えも憎まれたことが聖書に書かれています。彼らは、イエスさまの前に多くのものを持ちすぎたのでしょう。

 私たちの心には、たくさんの多くの要らないもので満ちてはいないでしょうか。体裁、プライド、人との比較、ねたみ、高ぶり、理屈、言い訳、うそ・いつわり、金への欲求、暮らし向きの自慢、自分を義とする思い、損得勘定、人からの称賛を求める思い、持ち物の自慢等々、挙げればキリがありませんが、心は世のものでいっぱいです。

 それに引き換え、イエスさまが愛された子どもたちはどうでしょう。「イエスさまのこと、好きだよ」これだけでイエスさまのもとへ行って、そばを離れようとしなかったのではないでしょうか。何の計算も思惑もありません。

 罪人とされた遊女や取税人も、イエスさまは彼らを愛していました。彼らは罪の赦しを信じ、それを疑うことがありませんでした。心に何の偽りもたくらみもなかったので、イエスさまもまた、彼らを愛されました。彼らもまた「心の貧しい」者であったのです。人々は彼らの陰口を言い、罪人扱いをしましたが、それが故に彼らの心は主の前にへりくだっていたのです。良く思われようとか、自分を誇ろうとか、そんなもののない「貧しい」心を主は愛されたと思うのです。

 泥のついたシャツのまま飛び込んでくれる子を神さまは愛してくださるのです。私たちは罪人です。イエスさまは救い主です。ありのままのあなたの、そのままの姿でイエスさまに帰るなら、イエスさまはあなたを受け取ってくださいます。

 それゆえ、肥え太った心こそ実は問題です。パリサイ人、律法学者のように心を太らせてはなりません。彼らはイエスさまを十字架にかけて殺してしまいました。ねたみからそうしたと聖書には書かれています。こころが肉で脂ぎっていると、世のもので豊かであると、決して主を見ることができませんし、その救いを知ることもできないのです。

 いかに「心の貧しい者は幸いで」しょうか。こころが貧しくなければ、天の御国に入れないばかりでなく、神に敵対する者となってしまいます。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」。これは、サウルの後の王に着く者を定める際に神がサムエルに語った有名なことばです。」(サムエル記第一167節)

 神の前に価値あるものはへりくだった心です。すべてはここにかかってきます。貧しいへりくだった心であれるよう、私たちも心の不必要なものを手放していこうではありませんか。

 主があなたを満たしてくださるために「心の貧しい者」でありましょう。「心がいっぱい」であると、主のものを受ける余地すらもはやありません。

 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇5117節)

MIKOE NEWSから転載」 2025年7月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年7月16日水曜日

 地震

 今、鹿児島、トカラ列島を中心として大きな地震が続いています。一日も早く収まるようお祈りいたします。よく、「地震、カミナリ、火事、おやじ」といって恐ろしい物の代表として、地震が挙げられています。確かに、東京にいた時、ゴーという響きとともに地震が来ると、関東平野全体が崩壊しそうで、恐ろしかったです。

 幼い頃、『地震列島』という本を読んでから、地震への恐怖はいや増しました。地震で日本は崩壊するという、ちょっとあおりすぎる所のある本でした。それで、幼心にすっかり地震への恐怖が刷り込まれてしまいました。

 また、教会がスタートして幾年もたたないうち、東京に大地震が起こるということがよく言われていました。私たちは、集まって祈り、トラクトをまき、神に悔い改めて立ち返るよう人々に語りました。同時に、水や乾パンなどの備蓄を始めました。みんな地震に関しては「明日はわが身」と受け入れるのですが、地震は神のさばきだから悔い改めよ、というメッセージを聞こうとする人はほとんどいませんでした。

 そうこうするうちに、東京ではなく、兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災が起こり、およそ数千人の人が亡くなりました。私たちの教会は、現地にチームを送りました。その後2011311日には、東北地方太平洋沖地震による東日本大震災が起き、数万人の犠牲者とともに甚大な被害をもたらしました。私の住む北海道では、北海道胆振(いぶり)東部地震の際、かなりの被害が出ました。これを書いている今日も、根室半島南東沖で地震がありました。

 年ごとに地震は増えている。これが私の実感です。そして、規模も大きくなってきているように感じます。今現在も南海トラフ、相模トラフをはじめ、危険を指摘されているプレートは幾つもあります。環太平洋火山帯の中に日本はいるのです。地震は、これからもっと大きなものが来るのではないかと思っています。また、いずれは地震とともに火山の爆発も起こるでしょう。富士山の噴火も昔から関東大震災とともに起きるのではとよく言われています。

 マタイの福音書24章で、お弟子たちはイエスに、「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」と聞いたことがあります。その時、イエスはこう語られました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」(38節)

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(914節)

 このイエスさまのことばを読む限り、地震は世の終わりの先駆けです。それは、陣痛のようなものでしょうか。生まれいづる苦しみではあっても、まだ、誕生すなわち終わりではないのです。しかし、陣痛が10分おきから1分おきへと切迫していくように、これらのしるしも切迫していくものとみた方が良いと思います。ききんと地震は「産みの苦しみの初め」で、方々に起こるのです。そして、事実その通りになっています。

 それでは、終わりの日は、いつ来るのでしょうか。それは、御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされた後です。聖書の翻訳は、ほとんどの言語に翻訳されていると聞きますし、各宣教団体も少数民族に至るまで広く宣教の手を伸ばしています。こういう訳で、終わりの日が来るのは近いと言えるのではないでしょうか。

 地震は終わりの時代のしるしです。今起こっている地震は、イエスさまの来られる時が近づいているしるしであると知ってください。ヨハネの黙示録にも、幾つかの地震が挙げられていますが、これには一つ一つに意味があります。神は、神を信じようとしない世をさばくしるしとして地震を用いられます。

 ヨハネの黙示録に書かれている最後の地震は、人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのものとなります。地震によって大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れ、島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなるほどのものです。そしてなんと1タラントほどの雹(ひょう)まで降るのです。この災害に、人々は神にけがしごとを言いました。災害が激しかったためです。

 神さまは、これらの激しい災害の前に、悔い改めて救いを得ることをみこころとされております。

 これから、さらに地震が頻発し多くの災害が起こるでしょう。しかしそれは世の終わりに臨む私たち人類に対する、神さまからの救いの招きの時でもあります。

 今この時に、イエス・キリストを信じ、救いを受け取りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2025年7月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年7月9日水曜日

天国からの執り成しの祈り

 天国に行ったら、神のみこころの中、地上とは異なる自由が許されているように思う時があります。私の父、義父母は、きっとのんびりと天の生活を楽しんでいるのでは、と思っています。

 私自身は、天国に行ったら、天で主の働きについている息子エリヤに会うことが何よりの楽しみです。地上では共なる時間を持てませんでしたが、天国では永遠に共に過ごすことができます。それ以外では、いのちの水の川に飛び込んで、心ゆくまでその水を飲んで、その両側にある木の実を食べてみたい、というのが願いです。A牧師は、天地創造を見せてもらいたいと言っておられました。天国は素晴しいところだと聖書にも書かれています。

 その中で、マダムKという方は、天国で執り成しの祈りをご自分の働きとして、真剣に主に仕えておられる気がします。どうしてそう思うのかというと、私自身が、マダムKの執り成しの祈りを日々感じながら歩んでいるように思えるからです。あくまでも私個人の感覚ですが。

 マダムKと私の出会いは、子どもがまだ就学前の頃でした。下のお嬢さんもまだ結婚前で、皆若かったです。アメリカチームに参加した時、お宅に招いていただきました。里芋の煮っころがしなどの日本食でもてなしてくださり、ロングビーチのヨットハーバーが見える喫茶店でおいしいチーズケーキをごちそうになりました。その後、ショッピングモールで買い物を楽しみました。良い思い出でした。

 それからおよそ5年後、私は9カ月まで育った赤ちゃんを、交通事故をきっかけに亡くしてしまいました。最初は、感謝し隙を作らず、あたかも乗り越えたようにふるまっていましたが、やがて、その反動が出て、うつ病と診断されてしまいました。強い薬が処方され、常にボーッとして、何もできない、廃人のような人間になりました。

 少しでも良くなればという母の気持ちで何度かイスラエルチームに連れ出してもらいました。そのイスラエルで、マダムKは私を見たのだと言います。あの活発な子がいったい何があったからといってこんなになったのか、と泣いて祈ってくれたと聞きました。

 ありがたいことです。知らない所で、泣いて祈ってくれたというご愛には感謝しきれません。そして、病にあった私は、マダムKが、私の知らぬうちに天に召されたことも知りませんでした。地上ではお礼を言うこともできませんでした。

 私の病は厳しいもので、体重は増大し、目も焦点が合いませんでした。13カ月入院しました。しかし、今は回復してきているのです。自分が誰であったか分からなかったほど、失った悲しみの底に漂っていましたが、自分が戻ってきているのです。

 私は、マダムKが天で私のことを執り成し祈ってくださっているのでは、と理屈ではなく分かる気がします。その祈りが、私を立て上げていることもなぜか分かるのです。本気で祈ってくださっていると、確信に近いものがあります。

 泣いて祈ってくださったマダムKです。天国でも、執り成しの祈りの手を緩めることなく、ガンガン祈ってくださっていることを私は確信しています。そして、その祈りは確実に聞かれています。良くなったのは、私の力ではなく、執り成しの祈りのおかげであるということは、誰よりも自分が一番よく分かるのです。

 時々、イエスさまを通して、マダムKに、祈ってくださってありがとうございます、と伝えてください、とお願いする時があります。そしてマダムKに伝わっていることを願っています。

 地上であっても、誰かに執り成し祈られている、ということは分かります。だから、マダムKが天で祈ってくださっているのだ、ということが分かる気がします。彼女には感謝し尽くせない思いを持っています。そして、どうかさらにお祈りいただければと主に祈っています。

 天と地をつなぐ祈りがあります。地上にいる私たちのために天から祈っている方々がいると思います。それらの祈りによって助けられていることは、私たちが思う以上に多いのではないでしょうか。働きは地上でしかできません。天に帰ってしまったなら、もう救いを語れないのです。そのチャンスは地上にいる私たちにあります。ですから、地上の働きが進むよう、私たちが実を結ぶよう、天で真剣に私たちのために祈っている方々がおられることを覚えておきましょう。あなたのためにも、天で祈っておられる方がいると私は信じています。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年7月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月25日水曜日

 永遠のいのち

 イスラエルとイランの戦闘に、アメリカが加わり、イランの核施設に空爆がなされました。イスラエルでは、トランプ氏に向けて「サンキュー、ミスタープレジデント」という看板が掲げられたそうです。ここで、イランの核施設をたたいておかなければ、大変な状況になるという見込みからこの戦争状態は始まりました。

 日本は、唯一の被爆国ですから、この戦争状態に対しても特別な思い入れがあるでしょう。核の使用は、広島・長崎で終わってほしいというアピールがなされています。これから世界は、どうなってゆくのでしょう。人間はばかじゃないから再び核なんか使わない。すべてが滅ぶような戦争なんてしない。そう考える人も確かにいます。

 しかし、聖書を見ると、人は罪人です。だから私は、同じ過ちを繰り返すと考えています。そして今、第3次世界大戦に向かっているのではないかと考えています。

 聖書に『ヨハネの黙示録』という巻があります。名前を聞いたことのある人も多いでしょう。そこに描かれている、戦争やさばきの様子は非常に厳しいものです。筆舌に尽くせない困難が描写されています。そして、『ヨハネの黙示録』は、「世の終わり」、すなわちこの世が必ず終わることをはっきりと書いているのです。

 ではいったい、いつこの世(地上の支配)は終わるのか。それは、中東包括和平締結後7年です。今、イスラエルを中心にイランや、さまざまなアラブ諸国、ロシアを含めて、戦争の火種はなかなか消えません。それら各国の事情を加味して、戦争を取りやめるよう導く政治的リーダーが出現するのです。そして、彼によって、皆が安心して住むようになります。

 しかし、ここが世の終わりのスタートになるのです。これが、起こったら7年後に、キリストの再臨(地上再臨)を迎え、この世は終わるのです。動かすことのできない事実として、聖書にそれは書かれています。

 ですから、私は、あと100年も200年もこの世が続くとは思っていません。むしろ、世界情勢を見てみると、中東包括和平へと向かっているその動きが加速しているようにさえ思われます。いつとは言えませんが、世の終わりは確かに近づいているのです。

 このような時代にあって、どう生きて行くか、あなたは備えをお持ちですか? 患難・苦難はもちろんやって来るでしょう。イランは、ホルムズ海峡の閉鎖を決めましたので、これから戦争の被害が忍び寄って来るでしょう。寒い北海道に住んでいるので、灯油が手に入らなくなったらどうしよう、と私も考えています。しかし、そういったことは、小さなことです。

 大切なことは「いのち」です。たしかに私たちには「いのち」が与えられていますが、多くの人が考えるそれは、死んだら終わる「肉の命」です。しかし、イエス・キリストが、皆さんに与えよう与えたいと願っておられるのは、「永遠のいのち」です。イエス・キリストを信じる者には、「永遠のいのち」が与えられるのです。

 ヨハネの福音書316節にはこのように書かれています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 私たちの希望、私たちの真のいのちは「天」にあるというのが私の思う所です。「天」は、永遠です。イエス・キリストが再臨されて後、千年王国という時代があり、その後新天新地に至るという所まで、ヨハネの黙示録には書かれています。

 私たちは、この地上にいる間に、永遠への備えをなしましょう。その一歩が、イエス・キリストをご自分の救い主として信じ、永遠のいのちを頂くことなのです。

 イエス・キリストを信じて、終わりの時代に備えましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月25日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月18日水曜日

 今が信じる時です

 先週613日に衝撃的なニュースが飛び込んできました。イスラエルがイランを空爆したというニュースです。イスラエルはイランの核開発施設数カ所を含む軍事施設など数十カ所を空爆、破壊したとのことでした。ロシアとウクライナの戦闘から中東でもイスラエルとハマスの間で軍事衝突が起こり、この中で、多くの方々が、イスラエルとイランの全面的戦闘を危惧していましたが、ついに不安が現実的なものとなってしまったようです。アメリカのトランプ大統領も、サミットを早退するなど前代未聞の行動をとり、その関心の異常な高さを知ることができます。

 かつて1970年代、イランとイラクが戦争状態になった時(いわゆるイ・イ戦争)、当時中東には多くの国、特にヨーロッパから石油開発のためにさまざまな企業が多大な出資をしてプラントに参加し、日本からも大手総合商社が参加していました。

 ところが、この二つの国の間で戦争が起きた時、日本以外の多くの国々が自分の国に戻っていきました。それは外交や安全保障の現実的な判断からですが、彼らは聖書を知っていましたので、中東で何か起こったら、すぐに終わらないばかりか、大変なことになると思っていたからという背景がもしかしたらあるのかもしれません。

 日本はあまり聖書を知りません。また両国ともあまり物資のない国でしたから、戦争はすぐにやむものと思っていました。そして戦争が終わった時には、最後まで留まったわれわれにかなり有利な結果となると思っていました。

 ところがこの戦争はそれぞれの国のバックに当時のソ連、アメリカが付き、イラン、イラクに対して膨大な軍事支援をし、別名米ソ代理戦争と言われるほどの戦争となりました。当然その被害も大きく、戦争は約8年続きましたが、終わった頃には、留まっていた日本の企業はプラント存続どころか、企業そのものの存続に影響が出るほどの事態となっていたそうです。

 日本から見れば中東はかなり遠くの国のように見えますが、この中東の出来事は常に世界全体に大きな影響を与えてくるのです。聖書から見れば、中東、特にイスラエルがその中心であり、イスラエルに関わる出来事は、他の中東諸国に勝って大きな影響力を持ちます。

 今回、このイスラエルとイランが本格的に戦闘状態となったことで、多くの国々が慌てるのも当然といえましょう。聖書、特に旧約聖書の預言書であるダニエル書9章を見ると、イスラエルを中心とした中東の混乱を終わらせるためか、やがて世界的な政治リーダーが中東を中心とした恒久的な平和条約を締結することが書かれています。

 もちろん、預言書にはさまざまな解釈があることは良く知っています。この恒久的中東和平が締結されてから7年で今の世界が終わることが書かれています。そして次の世が来ます。この次の世に入ることができるのは、イエス・キリストを自分の贖(あがない)い主と信じた者だけです。

 今回のイスラエルとイランの戦争も、間違いなくこの恒久的中東和平が近づいていることのしるしです。

 時はそれほど多く残されていません。イエス・キリストを信じるのはまさに今のこの時であると知ってください。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月11日水曜日

 ラザロの復活

 ヨハネの福音書11章のことです。ベタニヤのマリヤの兄弟ラザロが、病気にかかっていました。そこで、姉妹たちは、イエスの所に使いを送って、言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

 イエスはこれを聞いて、言われました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」。イエスさまは、マルタとマリヤ、そしてラザロを愛しておられました。それで、ラザロが病んでいることを聞かれても、そのおられた所になお二日とどまられました。そして、その後「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われました。イエスさまは、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」とおっしゃいました。

 お弟子たちは、「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」と言いました。それに対して、イエスさまははっきりとおっしゃいました。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところに行きましょう。」。主はご自分がなされることを知っておられたのです。ところが、お弟子のトマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と、とんちんかんな事を言います。彼もイエスを信じてなかったのです。

 イエスが着いた時、ラザロは墓の中に入れられて4日もたっていました。当時のユダヤ人の言い伝えの中で、死んで3日以内ならまだ死者の霊が黄泉(よみ)には行っておらず、生き返る可能性があると考えていたようです。しかし、4日たっていたら、もう生き返ることは絶対に無い、と考えられていました。ですから、ラザロの復活はメシヤでなければできない奇跡でした。このような状況の中、マルタは真っ先にイエスを迎えに行きました。そして言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになるものは何でも、神はあなたにお与えになります。

 イエスは言われます。「あなたの兄弟はよみがえります。」。マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えました。

 すると、イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。

 マルタは、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」と立派な信仰告白をしました。

 多くの人が泣いていました。また、イエスも涙を流されました。そして、死に対する憤りをもって、墓に来られました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました。

 「その石を取りのけなさい。」とイエスは言われました。マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と返事をします。イエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と彼女に言われました。そこで、彼らは石を取りのけました。

 イエスは目を上げて言われました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。

 そして、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出てきなさい。

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布に巻かれたままで出てきました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」と主イエスは言われました。

 ラザロは復活したのです。これを見た多くのユダヤ人がイエスを信じました。

 死は、普通私たちにとって絶望です。しかし、イエスはこの場所で、それに打ち勝つ力をお持ちであることを示されたのです。イエスさまご自身も、十字架で死んだ後、3日目によみがえりを果たされました。イエスさま以降、死は、もはや人類を支配しないのです。死に打ち勝つまことのいのちが、イエスのうちにあるのです。そのことを示すために、聖書のこの箇所が書かれました。

 イエスを信じる者は、死んでも生き、生きていてイエスを信じる者は決して死ぬことがありません。これが、イエスを通して神が約束されていることなのです。このことを、あなたも信じましょう。イエスさまは、神です。この方のうちには永遠のいのちがあるのです。私たちは、もはや死を恐れる必要はないのです。

 それゆえ、イエス・キリストをあなたの個人的な救い主として、心にお迎えいたしましょう。イエスは、あなたのすべての罪を赦し、あなたに定められている死からいのちへとあなたを移し、永遠のいのちを与えてくださいました。それが確かであることを示すため、イエスは死んで4日もたち、どう考えても望みのないラザロをよみがえらされたのです。コリント人への手紙第一1555節に「死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」と書かれている通りです。

 望み得ない時に望みを抱いて信じる、これが信仰です。そして、この神への信仰は決して失望に終わることがありません。死に打ち勝ったイエス・キリストを信じ、死に打ち勝つ勝利を得ましょう。

 すべて病は神の栄光が現されるためのものです。あなたも必ず神の栄光を見ます。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月4日水曜日

ベタニヤのマリヤ

 エルサレムに程近いベタニヤという村に、イエスが愛されている二人の姉妹がいました。姉の名はマルタ。妹は、マリヤと言います。同じ姉妹であるにもかかわらず、ふたりは正反対な性格でした。気配りにたけている出来の良い姉とマイペースな末の妹、といったところでしょうか。

 ルカの福音書10章には、この二人の様子が詳しく描かれています(38節~42節)。イエスさまが旅を続けておられる時、ベタニヤに入ったところ、マルタは喜んでイエスさまを家にお迎えしました。マルタは、これもして差し上げたい、あれもして、それから、といろいろともてなしのために気が落ち着かず、実際、猫の手も借りたいほどの状況でした。ところが、妹といえば、イエスさまの足もとに座ったまま動かず、じっとイエスさまの語ることに聞き入っているばかりです。この忙しい時に一体お前は何をやっているの!、とさぞじれたことでしょう。

 それで、憤ったマルタはついイエスさまにマリヤを非難してこう言います。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。

 それに対するイエスさまの答えはこうでした。「マルタ。マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」。主は、マリヤの在り方を、マルタの言い分よりも正しいとされたのです。

 それから月日がたち、過越の祭りの6日前に、イエスさまはまたベタニヤのマルタとマリヤの家に来てくださいました。イエスさまが死人の中からよみがえらされた彼らの兄弟ラザロとマルタ、そしてマリヤがいました。人々はイエスのためにそこに晩餐(ばんさん)を用意しました(ヨハネの福音書12111節参照)。マルタは熱心に給仕していました。

 晩餐のたけなわ、皆の前でマリヤは驚く行為に出ます。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油300グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐったのです。家は香油の香りでいっぱいになりました。

 イエスを裏切ろうとしていた、イスカリオテ・ユダはこれに憤慨して言います。「なぜ、この香油を三百デナリ(およそ人の年収に当たる)に売って、貧しい人に施さなかったのか。」

 しかし、イエスさまはこう言われます。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。

 マタイの福音書では、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(2613節)とイエスさまは語っておられます。

 ナルド油というのは、乙女が結婚式に備えて少しずつためておく香油だそうです。それを、すべてイエスさまに注いだマリヤの気持ちを主は受け止めてくださっていました。マリヤは愛するイエスさまに対して、自分にできる限りのことを行ったのです。マリヤは主が十字架でお亡くなりになることが近いことを、知っていたのです。なぜなら、そのことをイエスさまが既に話しておられたからです。御足のもとで、主のことばを聞き入っていたマリヤだからこそ、イエスさまのおことばによって、主の時がそこまで迫っていることを知り得たのです。

 対するお弟子たちは、イエスが何度も、人の子は十字架にかけられ殺されること、そして、3日目によみがえることを話されたのにもかかわらず、それを理解し悟ることができませんでした。イエスさまに死なれては困る、とまだ自立できていない心の状態があったのかもしれません。また、ユダヤ人の王イエスという自分たちの望むメシア観を捨てきれず、主が亡くなることを受け入れられなかったのかも知れません。いずれにせよ、主イエスのことばはお弟子たちの心に入って行きませんでした。ですから、ゲッセマネの祈りでも眠りこけてしまい、目を覚ましていなさいという主のことばにも聞けなかったのです。そして、ふたを開けると弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。

 しかし、何の肩書きも立場もない一人の信者にすぎないマリヤが、弟子たちが聞けなかった神のことばをしっかりと聞いていたのです。主の足もとで一心に聞いていたのがマリヤでした。ですから、主が、お亡くなりになることを知って、埋葬の用意をしたのです。

 そればかりではありません。イエスさまが復活することもマリヤは聞いて捉えていました。聖書にはイエスの墓に多くの女たちが向かったことが記されていますが、その中にベタニヤのマリヤの名はありません。イエスさまが、ご自分のご生涯について語ったことをマリヤはじっと聞いて捉えていたのです。そして、それをしっかりと心に留めていました。

 イエスさまは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」と語られました。私たちは、この一つを聞けているでしょうか。神のことばに耳を傾けているでしょうか。これこそが、最も大切なことだと、ベタニヤのマリヤを通して主が語っておられると思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年5月28日水曜日

放蕩息子

 ルカの福音書15章で、有名な放蕩(ほうとう)息子のたとえという箇所があります。

 ある人に、息子が二人ありました。弟は放蕩息子でした。まだ父が存命中なのに、父に身代を分けてくれるよう願い出ました。父は、そのわがままを聞き入れてやり、財産を兄と弟に分け、弟の分を彼に与えました。

 それから、幾日もたたないうち、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。しかし、彼はそこで放蕩三昧を尽くして、湯水のように財産を使い果たしてしまいました。

 そこに、その国にききんが起こったのです。彼は食べるのにも困り始めました。それで、ある人の所に身を寄せました。その人は彼を畑にやって、豚(当時忌み嫌われていたもの)の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、誰一人、彼に与えようとはしませんでした。世間は、放蕩息子が思う以上に厳しいものでした。

 こうして、われに返った放蕩息子は、こう言いました。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。』

 こうして、彼は故郷の父のもとに行きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は息子の姿を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。放蕩息子は言います。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。

 ところが父親はしもべたちに言いました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」。こうして、祝宴が始まりました。

 そこに仕事を終えて帰って来たのが兄息子です。これはいったい何事かと尋ねると「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」。すると、兄は怒って、家に入ろうとしませんでした。

 父は出て来て、いろいろとなだめてみました。しかし、兄は父にこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」。もっともな言い分だと思います。

 しかし、父は彼に言います。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。

 この例話が書かれたのは、一つには神の愛がどれほどあわれみ深いものかを示すためだと思います。神は、家出した放蕩息子であっても彼の事を忘れてはおらず、いつ帰って来るかと常に心を寄せていました。それでまだ家から遠かったにもかかわらず、彼を見つけたのです。そして父は、彼をかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。自分に向かって、「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません」と悔い改めている放蕩息子を見ると、父は(神は)、罪のすべてを赦して、助けの手を伸べずにはいられないのです。ここに神の深いあわれみの心が描かれています。それゆえ、祝宴を張って祝ったのです。神の愛とは、このようなものなのです。

 しかし、兄はそれが不満でした。兄が立っていた所は、律法です。子山羊一匹下さらなかったと父を責めました。父の恵みも愛も知らないのです。父は私のものは全部お前のものだ、と言ってくださいました。兄が弟の立場に立っても、父は同じようにしてくださったでしょう。でも、それが兄には見えていなかったのです。なぜでしょうか。それは兄が、父との愛による関係ではなく、ただ律法の内にある関係にしか立っていなかったからです。

 イエスさまは、マタイの福音書で「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(1920節)ということばを語られました。

 忠実だった兄は、本当は一番父の近くにいて、誰より父の愛なることを知っているはずでした。しかし、父の愛を見たのは、放蕩を重ねた罪人である弟の方でした。

 誰でも神に立ち返るなら、そのすべての罪を赦していただけます。神はイエス・キリストを罪の代価として私たちに与えてくださったからです。それゆえ神は、もはや私たちに罪をとがめてはおられません。律法を守ることによっては決して知ることのできない愛を、神は人間に注いでおられるのです。弟はその愛にあずかりましたが、兄はそれを知ることができませんでした。

 私たちもまた、心をかたくなにすることなく、愛なる神を知りましょう。神の愛は、人の思いをはるかに超えて深いのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月21日水曜日

 ザアカイ

 ルカの福音書19章で、ザアカイという人物が登場します。「彼は、取税人のかしらで、金持ちでした」。この一節から、彼がおおよそどういう生き方をしてきたかが分かります。

 いわゆる拝金主義です。取税人は、ローマへ支払う税の取り立て屋であり、しかもその上に上乗せまでして取り立て私腹を肥やしていたと言われています。それゆえ、かれらはユダヤ社会では嫌われ者でした。その取税人のかしらというのであれば、もうけのために相当悪いことをしてきたことでしょう。

 箴言178節に「わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。」と書かれています。これが、お金の力です。わいろの見返りというものは、必ず贈り主に帰ってきます。どうやって財産を築いたか、ザアカイはお金の力を知り尽くしていた人だと思います。そして、お金以外信じられない人になっていただろうと思われます。

 あるファーストレディーが、「私、お金のない人はだめなの」と公の場でこう語ったことを聞きました。世の中には本音としては彼女の言葉に同調する人は多いと思います。では、お金持ちはぜいたくか、といえば必ずしもそうではないのです。金持ちほど、お金を使いたがらない傾向があります。それは、彼らがお金を信じているからです。信じるお金が減ることは耐え難いことなのです。蓄え蓄え、お金に仕えるような人生を送り、またお金を持っている自分にうぬぼれていますが、それがみじめな生き方であることには全くというほど気づいていません。確かにお金は、至る所で通用する力があるからです。しかし、こんな現実だけを見るだけの考え方で果たして良いのか、と私は疑問に思います。

 イエスさまは王であるのに、ご自分の国である世に来られた時、貧しさの中に身を置かれました。自分を富ますことをせず、人々にご自分を与え尽くされました。また、マタイの福音書6章には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(2021節)と語られ、改めて私たちの宝、私たちの心がどこにあるかと問われました。

 そして、24節でははっきりとイエスさまは「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とおっしゃいました。

 こんな中で、ザアカイはイエスさまに出会ったのです(ルカの福音書19110節参照)。ザアカイは、地元で評判になっているイエスさまにぜひ会ってみたいと思っていました。何かが、ザアカイの心を動かしていたのです。しかし、彼は背が低かったので、群衆のために見ることができませんでした。もしかすると、背が低いことはザアカイのコンプレックスで、それが彼を拝金主義に向かわせたのかも知れません。しかし、群衆は彼を嫌っていたので、誰一人として彼に場所を譲ってくれる人はいませんでした。

 そこで、ザアカイは先回りをして、いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言うのです。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えました。

 人々は、あの方(イエス)は罪人のところに行って客となられた、と言ってつぶやきました。しかし、素晴しいことがすでに起こり始めていたのです。

 ザアカイは立って、主イエスに言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。
 イエスは、彼に言いました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

 イエスさまに出会って、ザアカイは救いを得たのです。イエスさまの愛が、彼を変えました。彼は、イエスさまがどんな方か、また自分を愛してくださっていることが分かったのです。今や、ザアカイの価値観は一変しました。お金ではなく、主の内にこそ永遠に続く価値があることを彼は知ったのです。それゆえ、先ほどのような言葉が、彼の内から出てきたのです。

 人をキリストに近づけるのは、お金ではありません。心です。あなたの宝とするものが何であるかが、あなたの心を現しています。ザアカイは、その心をお金から主イエス・キリストに変えました。それで、主もまた「きょう、救いがこの家に来ました。」と言ってくださったのです。

 テモテへの手紙第一610節にこのようなみことばがあります。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」。金銭を愛することは、ろくなことではありません。確かにお金は必要ですが、それが目的になってしまった時、大きく人生を誤ってしまうことを私たちは知っておきましょう。まことのいのちを得ることも、お金では買えず、ただキリストの恵みによることを忘れないでください。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月14日水曜日

 神の心をわが心とする

 出エジプト記24章で、主は「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう」と仰せられました。モーセが登ると、雲が山を覆い、6日間主の栄光がシナイ山を覆っていました。7日目に主はモーセを呼ばれ、モーセは、4040夜、山にいました。

 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられた時、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられました。(3118節)

 ところが、モーセがあまりにも手間取っているのを見て、民はアロンに言います。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

 それで、アロンは彼らに「耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい」と言ったので、民が持ってくると、のみで型を造り、鋳物の子牛にしました。子牛そのものを神としたわけではありません。目に見えない神の台座として造ったものと思われます。

 しかし、彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「あすは主への祭りである」と呼ばわりました。そして、翌日、朝早く全焼と和解のいけにえをささげ、民は座っては、飲み食いし、立っては、戯れたのです。(出エジプト記32章参照)

 主は、モーセに「さあ、すぐ降りて行け。彼らは早くもわたしの命じた道から外れ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、これがエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ、と言っている」と語り、民を絶ち滅ぼそうとされます。モーセが嘆願したので、主は災いを思い直してくださいましたが、宿営に近づき、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がり、板を砕き、子牛を火で焼き、粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませました。

 敵の物笑いとなっているのを見てとったモーセは、宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言ったところ、レビ族が皆、彼のところに集まりました。そこで、モーセは、彼らに「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」

 レビ人は、モーセのことば通りに行いました。およそ三千人が倒れました。

 モーセは「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために」と言われました。

 こうして、レビ族は、他の部族から取り分けられ、幕屋の奉仕をもって主に仕えるレビ人とされたのです。祭司アロンに仕え、またイスラエルの初子の代わりとされました。主は、レビ人はわたしのものである、と言われました(民数記31213節参照)。彼らはその行いによって、いかに大きな祝福と報いを受けたことでしょう。彼らは、とこしえまでレビ人として、祭司に関わる職を与えられました。それは、彼らが、主の心をわが心としたからです。

 イエス・キリストも同じようなことを言っておられます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません。(中略)自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」(マタイの福音書103739節抜粋)

 主を愛するということは、主の心をわが心とすることです。それは、自分以上に主を愛することであるのです。レビ人は、主につくゆえに同胞を殺しました。同胞への愛以上に、主への愛が勝っていたからです。そして、主はそれを良しとされ、レビ人を祝福し、特別な任務に就かせてくださったのです。

 このことは、旧約時代だけで終わるのではなく、その神への姿勢は新約時代にも受け継がれていることをイエスさまは示されました。イエスを愛する者は、イエスを何よりも第一にするということがなくてはあり得ません。そして、レビが、レビ職を受けたように、イエスのために自分のいのちを失なったものが、かえって自分のいのちを自分のものとするのです。

 歴代誌第二に、このように書かれています。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(169節)

 私たちの心は、主と全く一つになっているでしょうか。主よりも、自分のいのちや父母を愛することは情としてあるものです。でも、レビは、あの時主の側に立ったのです。主の心をわが心としたのです。このような人々を主は求め、また用い報いてくださるのです。私たちも情にさえも死んで、いのちさえも惜しまず、主の心をわが心として従えるよう、祈り求めてまいりましょう。主は、その心を見、確かにその心に報いてくださるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月7日水曜日

罪の赦しと救い

 罪の赦しということを考えると、それは人間にはできないことであると分かります。旧約時代には、罪の贖(あがな)いのためには、律法によって細かな規定が定められていました。罪過のためのいけにえは、雄牛の頭に手を置き、それをほふり、聖所の垂れ幕に血を七たびふりかけ、その血を祭壇の角に塗り、血を全部祭壇の土台に注ぎ、取った腎臓や脂肪、小葉を祭壇の上で焼き、火によるささげ物として煙にします(レビ記4章参照)。人々はこれを繰り返し行い、罪の贖いをしました。

 へブル人への手紙1013節には「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。(中略)かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」と書かれています。

 そして、イエスさまはこう言われたのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」(57節)

 これは、イエス・キリストが受肉し、世に来られ、十字架の死によって、またそれに続く復活によって、私たち人類のすべての罪を贖ってくださることを語っています。御子イエスは、ご自分がご自分の肉によって、人類の罪を贖うという神のみこころを知った上で、世に来られ、苦しみと死と復活を通してそれを全うされたのです。

 そして、このように書かれています。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(1213節)。罪の赦しは、イエス・キリストにおいて完成したのです。

 ヨハネの手紙第一には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(19節)と書かれています。ですから、今や、どんな罪でも赦されない罪はありません。神の前で罪を言い表すだけで、すべての罪が赦されます。そして、恵みによって罪の生活から立ち直る力までも与えられるのです。

 けれども、ある方々は、自分のこの罪だけは決して赦されない、赦されてはならない、と思っておられます。しかし、どうか赦されることを信じ、受け入れてください。

 人は自分の罪を自ら償うことはできないのです。自分の罪を赦していただくために人は何を差し出すことができるでしょうか。何千年もの間、人類は律法に従い牛や羊をささげ、罪と格闘しました。しかし、誰一人として、罪を帳消しにできた人はいませんでした。罪は依然として残るのです。罪の前に人は無力です。ただ無条件に赦していただくより他はないのです。そして救い主(メシア)であるイエス・キリストだけが、罪を赦すことがおできになるのです。

 ヨハネの福音書316節で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と語られています。御子イエスさまは、私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つために、義なる神と私たちの間を断絶していた罪の問題を、十字架によって解決してくださったのです。それは、神の愛とあわれみとによります。

 詩篇103篇にもまたこのように書かれています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(812節)

 私は、東が西から遠く離れている、というこの表現を、とても気に入っています。御子を信じる者は、その罪、咎、そむきから遠く離されているのです。東が西から遠く離れているほどに。

 罪の赦しのために神はどれほどの犠牲を払われたことでしょう。それらはすべて、神が用意し神が完成させてくださったものです。人が関わったところは一つもありません。ですから、それは「恵み」なのです。

 イエスさまに関して、ヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」と語り(ヨハネの福音書114節)、また「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(17節)と語っておられます。モーセによって与えられたのは律法で、私たちを救うことはできませんでした。しかし、赦しという恵みとまことは、イエス・キリストによって実現し、私たちを救いに導き入れたのです。

 ですから、この恵みにしっかりと立ち、イエス・キリストによる罪の赦しを信じてください。私たちは、十字架を信じることによって救われ、罪を告白することによって赦されます。そして、赦されたあなたの上に、神は豊かな祝福を与えてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月30日水曜日

もし、あなたが本当に困っているのなら

 人生にはいろいろな事が起こります。例えば、突然見舞われた不治の病や思いもよらぬ事故。陰湿ないじめや、お金がないこと。夫婦間のすれ違いや、親しい人の死。そして戦争やききん等々。本当に人生には、特に最近は、予期せぬことがいろいろと起こっています。

 誰にも相談できないこと。解決の糸口が見いだせないこと。あらゆる面で行き詰まり、もし、あなたが本当に困っているのなら、その時にはイエス・キリストのもとに来てください。イエスさまの前にあなたの悩みを、また苦しみを打ち明けてください。その心を、イエスさまに知っていただいてください。死を考えるほど追い詰められているのなら、なおさらのことです。

 イエス・キリストまた神は、あなたを拒まれるような方ではありません。信者であろうがなかろうが、神はすべての人にとって神です。あなたを造られたあなたの父です。あなたを顧みてくださらないわけがありません。また、十字架の上で自分のいのちさえ投げ出して、私たちの罪を贖(あがな)ってくださったキリストが、どうしてあなたを助けてくださらないことがあるでしょう。必ず、脱出の道はあるのです。絶望する中にも、神の解決はあるのです。神は、あなたの救いとなられます。そのことをぜひ知っていただきたいと思います。

 そして、困難にある時、神はそれを乗り越えられるように、私たちにまず慰めを与えてくださいます。聖書のコリント人への手紙第二1章には、このように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(中略)それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(略)その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(3節~6節まで抜粋)

 神は苦難を許されると同時に、慰めも与えてくださいます。これが人生の素晴らしい所です。世には「さばきの神」というイメージを持っておられる方は多くても、「慰めの神」を知る人は少ないと思います。しかし、先ほど挙げたコリント人への手紙第二1章では、「慰めの神」が描写されています。神は、苦しむ私たちを、ねんごろに慰めてくださるのです。苦難にある時は、神はご自身の「隠れ場」に私たちを連れて行ってくださり、ひそかに休ませてくださいます。

 顧みれば、イエスさまは、弱り果てた私を立たせてくださるお方でした。渇いた口に水を注いでくださるお方でした。マタイの福音書では、「いたんだ葦を折ることも無く、くすぶる燈心を消すことのない」お方だというふうに書かれています(1220節参照)。真実の愛で私たちを愛してくださっています。

 そして、マタイの福音書では、イエスさまご自身こう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(112830節)

 これは、すべての人に向かって語られていることばです。そして、救いのことばでもあります。イエス・キリストを、自分の救い主と信じることが、真に人を安息へと導くのです。イエスのくびきは軽いのです。それゆえ、重荷をおろしてイエスさまの十字架の救いを信じましょう。問題もまた神であるイエスさまによる解決があります。

 イエスさまが、十字架によってなしてくださったことは、あなたの罪を赦すことです。あなたのうちの、自分を責める思い(それは罪から来ますが)、行き場のない問題、そのすべてを、イエスさまはあなたの代わりに担ってくださいました。ですから、今、イエスさまを信じ、イエスさまのもとに帰りましょう。

 神の愛は、イエスさまによって体現されているのです。そして、それは私たちから出るものではなく、神の恵みによります。キリスト・イエスの恵みによって私たちは、どのような状況の中にあっても、希望となる力を頂くことができるのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月24日木曜日

自分に酔いしれる

 高慢ということは、自分に酔いしれた状態であると思います。ルカの福音書18章の9節から12節にかけて、神は興味深いたとえを話されました。

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとり人はパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 パリサイ人は当時のエリートで、取税人は税を取り立て、しかも往々にして不正をして同胞から決められた以上に取りたてて私腹を肥やしていました。それで、罪人として皆に嫌われていました。一方、パリサイ人は皆に尊敬されていて、人々の上に立って先生と呼ばれていました。

 それゆえパリサイ人は、宮に行き、立ってこのような祈りをしました。「神よ。私はほかの人々をようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。

 これは、パリサイの誇りでした。こんなにも主に仕えている私というものに、並々ならぬ自負があったと思います。確かに週に2度断食をしたり、律法を落ち度なく行うことはなかなかできないことです。それを守り行っていることは、当然、自分を褒める思いがあったでしょう。地位もあり、人の上に立ったパリサイ人は、知らないうちに自分の行いに酔いしれてしまったのです。もちろん、なすべきことは忠実に行ったでしょうから、非難の対象とは言えないでしょう。しかし、自分を高くするあまり、人を裁く高ぶりが生じたのではないでしょうか。

 それは「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」という一文に表れていると思います。

 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。

 イエスさまは、言われました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 地位や働きによって、知らぬ間に自分に酔いしれてしまうということは、どの世界においてもよくあることです。一国の首相から企業のトップに至るまで、不祥事によって辞任するケースを私もたくさん見てきました。高ぶりは滅びの前ぶれなのです。後になって、後悔してももう元に戻ることはできません。いかに多くの人が高ぶりの故に人生を棒に振ったことでしょう。

 神もまた高ぶる者を退け、心のへりくだった者をいつくしまれます。心が低いということは、神の前の美徳です。イエスさまは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と語られました。(マタイの福音書53節)

 それゆえ、常にキリスト・イエスに救われたあの日のことを思い出しましょう。その日から神の前には何も変わっていないのです。教会が大きくなると教会の中でも、社会同様に地位や立場が与えられてくるでしょう。しかし、イエスさまに出会ったあの信仰の原点を忘れてしまうなら必ず、ずれてしまいます。最悪の場合は退けられてしまいます。

 私たちは、サタンの小さなほめ殺しの言葉によって、いとも簡単に自分に酔いしれてしまいます。しかも、なすべきことは行っているのですから、まさか自分が誇っているとは思いもしないのです。

 パリサイ人は自分が神に仕えていることを誇りとし、自分に酔いしれ、自分を義人とし、取税人を罪人であるとさばいてしまいました。これはもう、神の前では高慢という罪です。

 バビロンのネブカデネザル王は、神が彼を立て祝福していたのにもかかわらず、「この大バビロンは、私の権力によって(中略)私が立てたものではないか。」と言った瞬間、ただちに彼は宮殿から追い出され、野の獣とともに住むようになり、七つの時が過ぎるまで、捨て置かれました(ダニエル書42932節参照)。彼もまた、高ぶりの一線を越えてしまったのです。

 神のあわれみを求めた取税人が、神の前には義とされました。それゆえ私たちは意識して、日々へりくだりを求め、低い心を求めていきましょう。

 「神は高ぶるものに敵対し、へりくだるものに恵みを与えられる」(ペテロの手紙第一55節) 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/