2025年9月5日金曜日

 大切な方を天国へ送った方へ

 誰でも、いつかは天に召され、地上での別れを体験するものです。故人を愛していた者にとって深い悲しみを覚えることもあるでしょう。

 私は、父を肝臓がんで亡くしました。車椅子でも良い、どんな形でも良いから一日でも長く生きていてほしいとずっと思っていました。しかし、どんどんがんは進行しました。治療するのですが常にがんに先手を取られました。がんはどんどん進行し、本当に悔しい思いをしました。

 肝臓がんの末期は、厳しいものです。最後にはおびただしい下血が訪れました。水道水をひねるようなひどい下血が訪れた時、もう駄目だと母は思ったそうです。全身の血が崩壊したような状態になったといいます。吐血ではなく、下血であったことが不幸中の幸いといえば幸いでした。しかし、失血してしばらくすると、いよいよ別れが始まってきました。父に、チェーンストークス呼吸が始まったのです。父は、懸命に呼吸し負けまいとするところを見せてくれました。私たちは、父のもとに立って、一人一人「ありがとう、お父さん。お父さんの子であってよかった。やがて私も後から天国に行くからね。」などとあいさつしました。父はちゃんと聞いてくれていたと思います。

 最期には、父は二人の御使いを見ていたようです。身体を傾け「もう少し生きることをお許しください。」「何とかお願いします。」「どうしても生きたいのです」と3度求めて、しかし、「もう、あなたの地上の時は終わっている」と聞き入れられることはありませんでした。3度求めて聞き入れなかった時、父は「分かりました。」と身体を戻しました。その瞬間瞳孔が開いたのです。父は御使いに両側から抱えられるようにして天に旅立ちました。こういうわけで、父が天国にいることに疑いはありません。しかし、いなくなった父への寂しさはなくなりません。その時、読んだのがマタイの福音書です。

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイの福音書61920節)

 これを読んで、本来の聖書解釈を超えて、父が天にいることが最善だと分かったのです。自分の宝とは、私にとって父のことでもあったからです。これ以上、父が病んだままで地上にいるなら、がんという虫が来て、さびが出て、傷もののままなのです。さらに損なわれることも起こるでしょう。

 だから、大切な人を天にたくわえること、つまり天に送ることはより優れたことなのです。確かに、寂しさはあるでしょうが、天に大切なその人を送るなら、もはや病も朽ちていくものもありません。天国は最善の場所なのです。

 アンデルセンの物語で、子どもを死神に連れ去られたお母さんが、子どもを追いかけて、子守歌を歌うことを引き換えに、また、いばらで胸から血を流すことを引き換えに、さらに、二つの目を引き換えに、湖を渡り、ようやく子どもの所に、死神の住まう所にたどり着きました。子どもの命である二つの花を引き抜こうとした時、死神は、手を出してはいけないと言い、二つの人生を見せました。その時、地上において苦しい道を行く子どもの姿と、天国で慰められている子どもの姿を見せられ、どちらを選ぶのか、と問われたという話があります。お母さんは、答えられず結局、この子のために一番いいようにしてください、と答えるにとどまったそうです。

 何が幸せかということは、そうそう判断できるものではないでしょう。しかし、「宝」すなわち、「大切なものは天にたくわえなさい」という神のことばには、聞くものがあると思います。

 もし、愛する人を亡くした方がおられるなら、天国でその方と再会することを喜びとしてください。その方が、既に天にいるなら、さらなる希望を持ってください。天は最善の場所であるからです。

 私は、父が天国に行ったことで、病の傷や痛みがいやされていることを信じています。地上ではがんでつらい思いをしましたが、天国において慰めを受けているのではないでしょうか。天国は最高の場所です。

 ただ、イエス・キリストを主として信じるだけで、あなたも天国に行くことができます。例え、私たちのこの世の命が尽きたとしても、天国にて永遠に生きることを許され、そして天において、先に天に行った人たちと再会することができます。それも生きて再会するのです。

 天の御国に望みを置く時、私たちが失うものは、何一つないのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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