2025年6月4日水曜日

ベタニヤのマリヤ

 エルサレムに程近いベタニヤという村に、イエスが愛されている二人の姉妹がいました。姉の名はマルタ。妹は、マリヤと言います。同じ姉妹であるにもかかわらず、ふたりは正反対な性格でした。気配りにたけている出来の良い姉とマイペースな末の妹、といったところでしょうか。

 ルカの福音書10章には、この二人の様子が詳しく描かれています(38節~42節)。イエスさまが旅を続けておられる時、ベタニヤに入ったところ、マルタは喜んでイエスさまを家にお迎えしました。マルタは、これもして差し上げたい、あれもして、それから、といろいろともてなしのために気が落ち着かず、実際、猫の手も借りたいほどの状況でした。ところが、妹といえば、イエスさまの足もとに座ったまま動かず、じっとイエスさまの語ることに聞き入っているばかりです。この忙しい時に一体お前は何をやっているの!、とさぞじれたことでしょう。

 それで、憤ったマルタはついイエスさまにマリヤを非難してこう言います。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。

 それに対するイエスさまの答えはこうでした。「マルタ。マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」。主は、マリヤの在り方を、マルタの言い分よりも正しいとされたのです。

 それから月日がたち、過越の祭りの6日前に、イエスさまはまたベタニヤのマルタとマリヤの家に来てくださいました。イエスさまが死人の中からよみがえらされた彼らの兄弟ラザロとマルタ、そしてマリヤがいました。人々はイエスのためにそこに晩餐(ばんさん)を用意しました(ヨハネの福音書12111節参照)。マルタは熱心に給仕していました。

 晩餐のたけなわ、皆の前でマリヤは驚く行為に出ます。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油300グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐったのです。家は香油の香りでいっぱいになりました。

 イエスを裏切ろうとしていた、イスカリオテ・ユダはこれに憤慨して言います。「なぜ、この香油を三百デナリ(およそ人の年収に当たる)に売って、貧しい人に施さなかったのか。」

 しかし、イエスさまはこう言われます。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。

 マタイの福音書では、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(2613節)とイエスさまは語っておられます。

 ナルド油というのは、乙女が結婚式に備えて少しずつためておく香油だそうです。それを、すべてイエスさまに注いだマリヤの気持ちを主は受け止めてくださっていました。マリヤは愛するイエスさまに対して、自分にできる限りのことを行ったのです。マリヤは主が十字架でお亡くなりになることが近いことを、知っていたのです。なぜなら、そのことをイエスさまが既に話しておられたからです。御足のもとで、主のことばを聞き入っていたマリヤだからこそ、イエスさまのおことばによって、主の時がそこまで迫っていることを知り得たのです。

 対するお弟子たちは、イエスが何度も、人の子は十字架にかけられ殺されること、そして、3日目によみがえることを話されたのにもかかわらず、それを理解し悟ることができませんでした。イエスさまに死なれては困る、とまだ自立できていない心の状態があったのかもしれません。また、ユダヤ人の王イエスという自分たちの望むメシア観を捨てきれず、主が亡くなることを受け入れられなかったのかも知れません。いずれにせよ、主イエスのことばはお弟子たちの心に入って行きませんでした。ですから、ゲッセマネの祈りでも眠りこけてしまい、目を覚ましていなさいという主のことばにも聞けなかったのです。そして、ふたを開けると弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。

 しかし、何の肩書きも立場もない一人の信者にすぎないマリヤが、弟子たちが聞けなかった神のことばをしっかりと聞いていたのです。主の足もとで一心に聞いていたのがマリヤでした。ですから、主が、お亡くなりになることを知って、埋葬の用意をしたのです。

 そればかりではありません。イエスさまが復活することもマリヤは聞いて捉えていました。聖書にはイエスの墓に多くの女たちが向かったことが記されていますが、その中にベタニヤのマリヤの名はありません。イエスさまが、ご自分のご生涯について語ったことをマリヤはじっと聞いて捉えていたのです。そして、それをしっかりと心に留めていました。

 イエスさまは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」と語られました。私たちは、この一つを聞けているでしょうか。神のことばに耳を傾けているでしょうか。これこそが、最も大切なことだと、ベタニヤのマリヤを通して主が語っておられると思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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