2019年3月27日水曜日

いやしと聞き従い

 列王記第二5章に、ナアマンという将軍が登場します。彼はアラムの王の将軍で、主君に重んじられ、また人々に尊敬されていました。ただ、彼はツァラアトという重い皮膚病にかかっていました。
 彼の妻の下女が、サマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっとツァラアトを直してくださるでしょう、と言ったところから、ナアマンは、馬や戦車をもって預言者エリシャの家を訪ね、入り口に立ちました。エリシャは、彼に使いをやって言いました。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」(10節)
 これを聞いてナアマンは激怒します。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川は、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか」(1112節)
 長年の闘病生活の中で、ナアマンは自分の病のいやしに関して既に固定したイメージを持っていました。ですから、姿さえ見せずに、使いをやって一方的に言葉を伝えただけのエリシャの対応に心底から怒ったのです。
 帰ろうとしたところ、家来の1人が彼を助けました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことを命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか」(13節)
 そこで、ナアマンは思い直して下って行き、エリシャの言った通りにヨルダン川で七たび身を浸すと、彼のからだは幼子のからだのようにきよくなりました。ナアマンは、エリシャが語った「神のことば」に従った時、いやしを見ました。いやしのポイントは、実は聞き従いにあるのです。神のことばを受け、従うこと。これがいやしの秘訣(ひけつ)です。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月31日号(第1035号)より転載—

2019年3月20日水曜日

よみがえり

 マルタとマリヤの姉妹は、兄弟ラザロの病を案じてイエスさまに使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。
 これに対してイエスさまは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためのものです」(ヨハネの福音書11章4節)とお答えになりました。
 イエスさまは、既にご自分がなすべきことをご存じでした。それは死者のよみがえりです。ラザロが死んで4日たち、望みが絶たれた頃、イエスさまは墓に着かれました。そこで、大声で「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれると、死んでいた人が布切れのまま出て来ました。ラザロはよみがえったのです。イエスさまの言葉通り、病や死に打ち勝った神の栄光が勝利のうちに現されました。
 そして、イエスさまは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(2526節)と語られました。
 死に対する勝利がここにはあります。死は人類の最後の敵です。ラザロのよみがえりは、後に来る、イエスさまの復活の先取りといえます。それゆえイエスさまは私たちに先立って、死からのよみがえりを果たされました。
 イエスさまは、ご自身死者からのよみがえりを果たすことを通して、救いの道を完成されました。こういう訳で、私たちはもはや死を恐れることはありません。あなたに関する全てを主イエスは成し遂げてくださいました。病もまた、栄光のうちに良きものに変えてくださいます。イエスにつく私たちもまた、イエスさまにあって死からよみがえります。イエス・キリストの元に帰りましょう。      (イスラエル北野)

み声新聞2019年3月24日号(第1034号)より転載—

2019年3月12日火曜日

希望は天にあり

 今年もまた春がやって来ました。桜の花をめでながら、天に帰って行った父を思い出します。1999年4月19日に父は肝臓がんで地上での生涯を終えました。55歳でした。父のがんは進行が速く、闘病生活は2年に満ちませんでした。
 父の病気に関して、神さまは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(ヨハネの福音書114節)ということばを下さっていました。 
 現状が現状なので、「死」ということばにはドキリとしました。また、栄光とは一体何が起こるのか、その意味するところを理解できませんでした。 
 幸いなことに、父は入院前に妹を通して救われていました。病は父の信仰を立て上げました。病状が進む中、父は一切愚痴を口にせず、激烈な痛みにじっと耐え、助けてくださる方々に感謝の言葉を語り、最期までイエスさまのいやしに期待して闘病生活を全うしました。父は勝利の凱旋(がいせん)を遂げ、私たちは確かに神の栄光を見ました。
 目には見えませんが、教会にはイエス・キリストがおられます。イエスさまは病をいやしてくださいます。私たちが健康であることは神のみこころにかなうことです。ですから、大胆にいやしを求めて良いのです。そしてその通り、多くの人が祈り、がんが縮小したり消滅したり、神の奇跡と栄光の現れを見ました。
 しかし、いやしを受けながらも、結局は亡くなってしまうこともありました。それは、病のいやしは、究極的には天において復活のからだを頂くこと、すなわち「救い」にあるからです。
 私たちの希望は天にあります。天の報いこそ、私たちの永遠の取り分です。病のいやしもさることながら、天への希望こそが、神が私たちに約束されたご自身の栄光です。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月17日号(第1033号)より転載—

2019年3月5日火曜日


父の愛

 ルカの福音書15章に、放蕩息子のたとえと呼ばれる箇所があります。登場人物は、神さまを指す父、優等生の兄、そして出来の悪い弟の3名です。
 ある時、弟は財産分与を父に願い出ます。父はそれを聞いてやりました。すると、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。
 その地で彼は、放蕩の限りを尽くし、湯水のように財産を使ってしまいました。そこへ大飢饉(ききん)が起こり、食べるにも困るようになりました。そこで、ある人のもとに身を寄せたところ、彼を畑にやって豚の世話をさせました。ユダヤ人にとって豚の世話は忌み嫌われている仕事です。しかも、彼がどんなに空腹であっても、誰も彼に食べ物をくれず、豚が食べている豆で腹を満たしたいほどでした。
 悩みを受けて、彼は父とその国とのことを思い起こします。彼は決意しました、帰ろうと。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」。こう語るつもりでした。ところが、まだ家から遠かったのに、父は彼を見つけました。かわいそうに思って走り寄り、彼を抱き、口づけしました。
 父はこう言います。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい」。父は、彼を再び子として迎えてくださったのです。兄は、放蕩ざんまいで身を持ち崩した弟に祝宴を設ける父に不服でしたが、父は、「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ」「楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と言いました(1132節参照)。
 神さまは、たぎる愛をもって、あなたが帰ってくるのを待っておられます。み父の元に帰りましょう。神はあなたを、愛する子として迎えてくださいます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月10日号(第1032号)より転載—

2019年2月27日水曜日

老いにあっても

 私は50代の主婦です。若い頃の自分が考えていた50代というのは「年寄り」のイメージでした。しかし、いざ自分が50代に踏み込むと、心はとても若いのです。自分を「年寄り」として認めるにはまだ早いかな、と思います。
 昔は還暦といえば長生きした方で、60歳になると、よくここまで生きてこられましたね、と赤いちゃんちゃんこを着て祝いました。そこから見ると今の日本は、押すに押されぬ長寿国になりました。昔の60歳と今の60歳では大きく異なると言われています。
 とはいえ、寄る年波には勝てずと言います。加齢とともに少しずつ不自由になっていく身体に向かい合う中で、余生をいかに生き、いかに人生の幕を下ろすかということを思わない人はいないと思います。
 イザヤ書40章にはこのように書かれています。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(3031節)
 また申命記34章には「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)とあります。
 聖書が言う、たゆまぬ力、はどこから来るのでしょう。それは神から来ます。ですから、キリストを信じることがとても大切です。神を信じ、神の御声に従うこと、それが力だと聖書は語っています。神が下さる力は、肉体の若さ以上に優れて偉大です。主を待ち望むことは私たちの力です。
 アブラハムもモーセも、年を取ってからその人生のクライマックスを迎えました。神にあって彼らは壮健でした。私たちもまた、イエスさまを信じてイエスさまに従う人生を行きましょう。神とともに歩む人生には、神の力が注がれます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月3日号(第1031号)より転載—

2019年2月20日水曜日

期待する心
 
 クリスチャンライフの中で最も重要なものは信仰です。ところが私は、信仰と聞くたびに苦手意識が頭をもたげます。敵の攻撃なのでしょうが、私は不信仰だから何も起こらないだろうと、信仰の不足を責められているように感じていました。
 信仰とは何でしょう。確かにいろいろな意見があるとは思いますが、私は「期待する心」だと思います。例えば聖書には「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイの福音書7章7節)という約束があります。この一文を読んで、そうだ、と期待する心を持って近づくなら、そこに信仰が働き、神さまの手が動きます。神さまは、約束を果たされるお方ですから、その約束は必ず実現します。
 しかし信じていない人はどうでしょう。それらの人々は、初めから期待などしていません。ですから祈りもしません。結果、何の神のわざも見ないのです。不信仰は、期待しない心の成れの果てです。
 願うこと、求めることは、信仰によります。信じていない者がどうして祈ることができましょう。神は答えてくださると信じたその信仰だけが、神の約束を確かなものにするのです。願うこと、求めることは、信仰によります。それ故、私たちは期待する心をもって神に近づきましょう。信じるなら、私たちは等しく神の御手(みて)が動くさまを見ていきます。
 こういう訳で、期待するということはとても重要なことです。そこには信仰が伴うからです。信仰と行いは密接な関わりがあります。結局、人の一生は、何を信じるかによって決まります。ヨハネの福音書2027節には、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と書かれています。これはイエスさまが弟子トマスに語ったことばです。神のことばを信じ、期待し、信仰の実を結びましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月24日号(第1030号)より転載—

2019年2月13日水曜日

曲がった時代
 先週は、千葉県野田市の小学4年生の女児が、父親から虐待され死亡したという事件でもちきりでした。
 他にも記憶に新しいところでは、2018年3月に、目黒の5歳児の虐待死がありました。食事を与えられず、衰弱死した女児ですが、就学前なのに平仮名を学んで、必死に書き残した文面はたどたどしく、「もうおねがいゆるして」の文字は多くの人の涙を誘いました。それでも最後まで親に子どもらしい信頼を寄せていることが文面にうかがえ、なお、悲しい事件でした。
 子どもだけではなく、高齢者にも社会のしわ寄せがきています。
 テレビで見たある老夫婦は、わずかに残った全財産を引き出して、死出の旅に出ました。ちょっとぜいたくな旅館に泊まり、チップまで置いて過ごしました。やがてお金が尽きると、2人はあらかじめ決めていた通り、日本海で入水(じゅすい)自殺をはかり、生涯を閉じました。どんな気持ちで最期を迎えておられたか察するに余りあります。
 政治家のHさんは以前、お金がないことが分からない、というようなことを言っていました。よく億単位のお金が母親から小遣いとして振り込まれるといいます。これを聞くと、日本は中流意識が高いと言われたのも過去のことで、今は、一握りの富裕層と大多数の貧民、という格差社会へと向かって移行しているように思います。
 時代は変わりました。マタイの福音書24章は「小黙示録」と呼ばれ、特に終末の事が書かれています。その中で12節には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書かれています。確かにその通り愛が冷えているのを感じます。
 ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」(使徒2章40節)と語りました。主イエスを信じ、救いを受けましょう。(イスラエル北野)
み声新聞2019年2月17日号(第1029号)より転載—