2022年8月4日木曜日

サウルとダビデ

  サウルは、イスラエルの初代の王であり、ダビデはそれに次ぐ2代目の王でした。2人とも見目麗しく、王にふさわしい外貌の持ち主でした。彼らが活躍したのは、旧約聖書サムエル記に記録されている時代で、預言者サムエルが彼らに王としての油注ぎを行いました。

 2人の間には長い戦いがありました。特にサウルはダビデへの妬みがありました。サウルはゴリアテとの戦いで功あったダビデを召しかかえましたが、その後、王位が自分からダビデへ移ったことをサムエルに告げられて以降、それを重く見て、何度もダビデを殺そうとしたのです。

 サウルという人がどのような人かというと、私は「承認欲求」の強い人だと思っています。誰でも承認欲求は持っています。でも、サウルは人様に認められたいという気持ちが人並み以上に強いのです。そしてそれは、サウルを「人を恐れる人」にしてしまいました。

 サウルの政治は、人を恐れた政治、民心を買おうとした政治です。自分を王に選んでくださった神を忘れ、民心が自分から離れていこうとするのを何よりも恐れました。端的な例は、サウル失脚のポイントとなってしまった「アマレクとの戦い」です。神は、サウルに、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ、と語られました。しかし、サウルはこれに背き、アマレクの王アガグと最良のものを惜しみ、値打のないものだけを聖絶しました。

 サウルは、神のみこころを行っていたつもりでした。しかし、サムエルは言いました。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、御羊の脂肪にまさる。(中略)あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(サムエル記第一152223節)

 ようやくサウルは自分の非に気付きました。「私は罪を犯しました。(中略)私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」と罪を認めました。ところが、今ひとつ反省の色がなく、こういうことを言うのです。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」サウルは、自分を立ててくださった主を恐れず、ここまで来てもなお、思うことは民や長老たちの反応であり自分の面目です。これでは悔い改めの実が結ばれたとは言えないのではないでしょうか。承認欲求の強さのあまり、過度に人を恐れたこと、これがサウルの決定的な弱さであるのです。

 一方、ダビデは、罪人(つみびと)であるということにおいてはサウルと同じです。人間的な見方では、むしろダビデのほうが、サウルより大きな罪を犯していると言えるかもしれません。彼が犯した罪は、バテ・シェバとの姦淫の罪と、バテ・シェバの夫のウリヤを戦死させた殺人の罪です。

 ダビデには王宮付きの預言者ナタンがいます。そのナタンがダビデのところに遣わされて、ダビデの罪を指摘しました。するとダビデは直ちにナタンに「私は主に対して罪を犯した」と言いました。神に対して自分の罪を表明したのです。ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」そう告げ、帰って行きました。

 主はダビデに甘い。そういう訳ではありません。ダビデは、悔い改めるにあたって「私は主に対して罪を犯した」と言いました。すべて罪の悔い改めは、神に対してなされるものであるのです。そして、罪が赦されるのもまた主によるのです。

 サウルとダビデは、どちらも罪を犯しました。面目を立ててくださいと懇願したサウルは、その通り人を恐れる者であり、主の前に直ちに悔い改めたダビデは、神を恐れる者でした。両者の違いはここにあるのです。

 そして言うまでもなく、神を恐れることが人を恐れることより優れています。神を恐れる者には真の自由がありますが、人を恐れる者は人の奴隷となります。もし、あなたがイエス・キリストを信じ、神に従う道を選ぶなら、あなたは神を恐れることを学び、そのことをもって、人を恐れることから解放されます。

 それゆえ私は言います。イエス・キリストを信じ、真の自由を得てください。主のくびきは軽く、あなたはあらゆる面で救いを受け、助けを受け、永遠の命を受けます。人に認められることより、神に認められることのほうがはるかに素晴らしいと私は思います。

MIKOE NEWSから転載」 2022年8月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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