2021年8月4日水曜日

妬み

 罪にはいろいろありますが、その中で今回は特に「妬み」を取り上げてみたいと思います。

 正直なところ私は、自分がほしいと思っても与えられていないものを他の人が持っていると、心中穏やかではいられなくなります。劣等感が生じ、うらましいという思いも高じてくるとそれは時に憎しみに変わります。人は願っても手に入れられないと、持っている人を妬むのです。

 聖書で最初に「妬み」や「憎しみ」が取り上げられているのは、創世記4章のカインとアベル兄弟によります。兄のカインは土を耕す者であり、弟アベルは羊を飼う者でした。それぞれ神にささげものをする時になると、カインは地の作物からなにがしかのものを持ってきました。アベルは羊の初子の中から最上のものをそれも自分自身で持ってきました。主はアベルとその捧げものに目を留められました。けれどもカインとそのささげ物には目すら留められませんでした。それでカインはひどく怒り、顔を伏せました。神は罪を治めなさいとカインに忠告しました。しかし、カインはアベルを野に誘い出し、襲いかかって彼を殺してしまいました。これが妬みの罪が実を結んだ結果です。

 妬みの行き着く先は殺人です。アベルはカインに妬まれ、その妬みはアベルを殺すところまで行きました。妬みが働きそれが募ると、妬む相手が生きていることさえ我慢ならないのです。暗黙の裡にサタンが働いていることを心に留めてください。

 イエス・キリストを殺したのも、妬みでした。祭司長、律法学者たちは、民衆が自分たちから離れて、イエスキリストの方に行くのを見て、イエスさまの人気を妬んだのです。総督ピラトはそれを見抜き、イエスには罪を認めないとして釈放しようと務めました。でも、民の指導者たちは民衆を扇動して、イエスを十字架にかけるようピラトに求め、遂にその声が勝ちました。サタンはイエスさまを殺すことに成功し有頂天になっていたでしょう。

 ところが、神のはかりごとはそれより大きかったのです。なぜならイエスさまは確かに十字架で死なれましたが3日目に神の力によって復活を遂げられたからです。かりそめの世の命こそ死んで失いましたが、しかし、神はイエスの復活によってそれよりさらに優れた永遠のいのちをイエスにはたらかせ、またイエスを通してそれを私たち人類に与えてくださいました。イエスさまはよみがえりの初穂であられ、サタンはここに決定的な敗北を喫しました。

 神は愛です。またコリント人への手紙第一13章では愛は寛容であり、親切で、人を妬みません(以下略)と書かれています。この神の愛を知ることが真に人を妬みから解放させます。自分が愛されていることを知るなら、もはや妬む必要はありません。イエスさまはあなたの代わりに十字架で死んでくださったほどあなたを愛しておられます。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ人への手紙1215節)という聖書の勧めも、イエスさまにあってそれができるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年8月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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