脱出の道
キリスト教徒への迫害は、時の権力者によって実に残酷な方法で行われ、政治利用されました。その良い例は、ローマ皇帝ネロによる大迫害です。ネロは詩や歌を好んでいました。そして詩歌のインスピレーションを得るためローマに大火を放ったといわれています。そしてそれをキリスト教徒の仕業だとし、良い口実としてこれを利用しました。こうして、迫害が始まっていきました。ローマでは、コロッセオにクリスチャンを集め、お腹のすいたライオンを解き放って食べさせるという残虐な処刑方法で多くの殉教者を出しました。
日本のキリシタンの迫害も、政治利用のなれの果てです。信長、秀吉、家康と最初は良かったですが、日本が植民地化されるのではという政治的な意図を読み取ると、一転して迫害に転じました。あまり知られていませんが、日本も二十六聖人を初めとして数多くの殉教者を出しています。そしてその処刑は、生かさず殺さずを旨とし、責め苦を与え、およそ人が考えつかないような残虐な方法が取られています。
「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録2章10節)とは聖書のことばで本当にその通りです。クリスチャンはイエスキリストを信じた時に、世に対して死んでおり、永遠のいのちが与えられています。真の命を頂いているので、喜んでこの世のかりそめの命を差し出すことができたのです。とはいえ、肉体は弱いのです。
先日、遠藤周作氏の『沈黙』が映画化され、多くの議論を巻き起こしました。迫害の様子があまりにもむごたらしいので、具合を悪くした人も多く、信仰を持つことがこんなに大変ならとても自分にはできないと思った人も多かったようです。
それが正直なところでしょう。「ころぶ」とは、棄教するという意味です。迫害に耐え抜くのはなまやさしいものではありません。「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マルコの福音書14章38節)とイエスさまはおっしゃいました。肉体はしばしば心を裏切ります。生身の責め苦に耐え切れず信仰を捨て、ころぶことも多いのです。またころばせようとありとあらゆる手が尽くされます。
迫害下、信仰を守り通した者は、そこに神さまの助けが恵みやあったことを証ししています。そして、コリント人への手紙第一10章13節にはこのように書かれています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」
脱出の道、これは神の恵みであり愛であり約束です。どのような状況下にあってもこのことばは私たちの希望です。期待していきましょう。
「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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