2021年6月1日火曜日

 救いと悟り

 人の一生は「救い」を探し求めて歩む旅のようなものであり、私たちは皆、「救い」を求める求道者です。「救い」というのは、もっぱらキリスト教において使われる言葉であり、仏教ではそれに近い言葉として「悟り」という言葉があげられます。

 仏教的な言葉を援用すると、キリスト教の「救い」は究極の他力本願です。救われるには、既に完成されているイエス・キリストの救いをただ信じ、受け取るだけでよいのです。それに対して、大方の仏教のいう「悟り」とは努力、修行・苦行など徹底した自力本願による境地です。「救い」が神の一方的な恵みによってなされるものであるのに対し、「悟り」は仏教の境地で、修行に重きが置かれ、自分の力により頼ませます。ここに両者の大きな違いがあります。「悟り」の境地に入るには並々ならぬ自助努力が求められるのです。それゆえに、かえってそれが価値あるものとして見なされ、今に至っています。

 聖書の使徒行伝16章に興味深い話があります。キリスト・イエスの弟子であるパウロとシラスが、福音宣教のかどで牢屋に捕らえられていた時、真夜中に神に祈りつつ賛美していたら突然大地震が起こりました。獄舎の土台が揺れ動き、鎖が解けてしまいました。看守はてっきり囚人たちが逃げてしまったものと思い、自殺しようとしました。しかし、パウロはそれを止めました。

 すると看守は震えながらひれ伏し「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言いました。何を言われても努力するつもりでそう聞きました。けれども、これに対して二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。何かをすることではなく、ただ信じることによって救いにあずかれるのです。看守もそれを理解し、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。

 「救い」は「悟り」とは異なり、ただ信じることによってあずかるものです。そしてこれこそが神の知恵なのです。なぜなら、もし救いが力によるものなら、力のない人は救いにあずかることができません。お金で買うものであるなら、お金のない貧しい人は救われません。それ故神は、私たちが救いにあずかるために必要な唯一の条件として、信じることを選ばれたのです。これなら、誰にでもできます。

 救いは、信じるという、一見愚かに見えるあり方を通して、今やすべての人に等しく開かれています。信じる者は皆救われ、多くの者が神に立ち返っています。こういう訳で、あなたもまたイエス・キリストの福音を信じ、救いを受けましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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