生ける神の現実
クリスチャンになる以前、私は宗教に関して多くの日本人がそうであるように、お正月には神社に行き、お葬式は仏教で、結婚はキリスト教式と、それぞれ宗教というよりは文化として関わっていました。
ところが、18歳の時にイエス・キリストを信じ救われ、クリスチャンになりました。そこから祈りを学び、生活の一部としていつも祈るようになりました。そして発見しました。祈りが聞かれるのです。祈って終わりではなく、具体的に祈りの応答を見るのです。神が今も生きておられ、助けてくださることを至る所で体験しました。
一例を挙げると、クリスチャンである私の妹に起きた奇跡があります。妹はМバーガーの店長をしていました。毎月、前年度以上の売り上げ達成を求められます。ところが月末まであと2、3日という頃になるとこれじゃあノルマは達成できないと読めるらしいのです。そうなると、そこから彼女の奥の手が動き始めます。祈りです。祈ると急にお客さんがたくさん来たり、大口の注文があったり、自然な形で助けられ、月末にはほんの少しだけ前年度の売上げを上回って落ち着くのです。それも1度や2度ではなく何度も起こり、これには本部の方にも不思議がられ、神さまのご栄光の現れとなりました。
イエス・キリストを信じ、神の子になったその日から、私たちは神との生ける交わりに与るようになります。神さまを肉眼で見ることはできませんが、見えること以上に神の現実を見ることができます。こういった生ける交わり、生ける信仰は、寺社仏閣参拝では見られないものです。
それでは、信仰とはどういうものでしょうか。信じるとは、どうすることでしょう。へブル人への手紙11章6節にはこのように書かれています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」
私たちが信仰に立つことを神さまは喜んでくださいます。そして、何を信じるのかということについては、前述のように神がおられることと、報いてくださることを信じるのです。信じ祈る時、奇跡が起こります。しかし、信じない者はそもそも祈ることさえしないのです。それ故、生きて働く神のみわざをその現実を、見ることもありません。
「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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