2018年10月31日水曜日

一粒の麦

 以前、家の修理に来てくれた大工さんが、手を止めてしばらく見入っていた木彫りの額があります。ヨハネの福音書1224節からの引用で、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます」と刻まれています。
 これは、聖書の中でもよく知られている聖句です。大工さんは何かを感じ取ろうとしている様子で、「深けえなぁ」と語りました。
 私も、一粒の麦が死ぬとはどういうことなのだろうと、思いを巡らせました。
 このみことばの直前の23節で、イエスさまは「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と語っています。実はこの一粒の麦とは、まずはイエスさまご自身のことを語っているのです。
 一粒の麦としてイエスさまが世に来られて、人類の贖(あがな)いを完成させるために、ご自分のいのちをお捨てになって死なないなら、それはただ一人の死で終わります。
 けれども、もしイエスさまがご自分のいのちを自分のものとせず、自分に死んで十字架の死を遂げたなら、おびただしい数の人々がイエスの死によって生かされ、豊かに救いの実を結ぶのです。イエスさまはその事を知っておられたので、その決意とともに、人の子が栄光を受ける時が来ました、と語られたのです。
 私たちもまた、一粒の麦です。自分に死に、そのいのちを神にささげるなら、その人生は、神のみ旨に従っておびただしいたましいの大収穫に用いられるようになるのです。さらに、25節にはこう続きます。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」。
 自分のしたいことではなく、神のみこころを行う時、真の人生を得、最高の祝福を得るのです。(イスラエル北野)

み声新聞2018年11月4日号(第1014号)より転載—

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