2018年10月3日水曜日

神の芸術

 『枕草紙』の中で清少納言は「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」という一文を寄せています。野分とは台風のことで、台風の翌日は大層しみじみと趣深いという意味です。
 今年はいつにも増して台風の被害が甚大でした。私は徳島の鳴門で生まれ育ちました。いわゆる台風銀座と呼ばれる所で、毎年台風がやってきます。海は荒れに荒れて、立っていられないほどの暴風雨になります。
 ところが、台風が過ぎ去った翌朝になると打って変わって良いお天気になり、青空が広がって、海岸には漂流物が打ち上げられています。その漂流物を見に行くのがまた楽しみでした。流木を探して、芸術家よろしくオブジェにしたりと、楽しみは尽きません。清少納言もまた台風の楽しみを知っていたようです。
 聖書には「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」(マタイの福音書2142節)と書かれています。漂流物は本来ゴミです。しかし、神はその捨てられるべきゴミを、芸術作品へと作り変えることができるお方なのです。
 コリント人への手紙第二5章17節には次のように書かれています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。キーワードはキリストです。キリストの内にあるなら、キリストの力によって、私たちは新しく造られます。再び生まれると言ってよいでしょう。
 イエスさまは、腕のいい芸術家です。世にあっては、あたかも捨てられたもの同然の私たちを愛し、尊い者としてくださいます。そして誰にでもそうしてくださるのです。キリストの内にあるなら私たちは新しく造られた者となり、最高の作品となるのです。(イスラエル北野)

み声新聞2018年10月7日号(第1010号)より転載—

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