2018年10月24日水曜日

罪深い女

 罪深い女。これは、当時「娼婦」や「遊女」と呼ばれた女たちの蔑称です。前回、私は、イエスさまには罪を赦す権威が与えられているということを書きました。百歩譲って、人が人を癒すことがあっても、罪を赦すことはできません。それは、神のみがなし得るものだからです。
 あるパリサイ人がイエスを招き食事をともにした時、1人の罪深い女がやって来ました。彼女は香油のつぼを持って、泣きながらイエスのみ足に口づけして、香油を塗りました。
 それを見て、イエスを招いたパリサイ人シモンは心の内で、この方が預言者なら、彼女がどんな女だか知っているはずだとつぶやきました。
 するとイエスは彼にたとえを語りました。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」シモンは「よけいに赦してもらったほうだと思います」と言いました。イエスさまは「あなたの判断は当たっています」と言われました。(7章4142節)イエスさまは「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし、少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカの福音書7章3647節参照)
 けだし名言です。居合わせた者たちは皆、罪を赦すこの人はいったい誰だろうと困惑しました。
 イエスさまは、私たちの罪、全てを赦すために世に来られました。イエスさまにあって、私たちは全ての罪が赦されています。それは数え切れないほどの多くの罪です。イエスさまを信じましょう。そして、より多くの恵みにあずかるため、多く赦されていることを知り、多く愛する者となりましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2018年10月28日号(第1013号)より転載—

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