2025年6月18日水曜日

 今が信じる時です

 先週613日に衝撃的なニュースが飛び込んできました。イスラエルがイランを空爆したというニュースです。イスラエルはイランの核開発施設数カ所を含む軍事施設など数十カ所を空爆、破壊したとのことでした。ロシアとウクライナの戦闘から中東でもイスラエルとハマスの間で軍事衝突が起こり、この中で、多くの方々が、イスラエルとイランの全面的戦闘を危惧していましたが、ついに不安が現実的なものとなってしまったようです。アメリカのトランプ大統領も、サミットを早退するなど前代未聞の行動をとり、その関心の異常な高さを知ることができます。

 かつて1970年代、イランとイラクが戦争状態になった時(いわゆるイ・イ戦争)、当時中東には多くの国、特にヨーロッパから石油開発のためにさまざまな企業が多大な出資をしてプラントに参加し、日本からも大手総合商社が参加していました。

 ところが、この二つの国の間で戦争が起きた時、日本以外の多くの国々が自分の国に戻っていきました。それは外交や安全保障の現実的な判断からですが、彼らは聖書を知っていましたので、中東で何か起こったら、すぐに終わらないばかりか、大変なことになると思っていたからという背景がもしかしたらあるのかもしれません。

 日本はあまり聖書を知りません。また両国ともあまり物資のない国でしたから、戦争はすぐにやむものと思っていました。そして戦争が終わった時には、最後まで留まったわれわれにかなり有利な結果となると思っていました。

 ところがこの戦争はそれぞれの国のバックに当時のソ連、アメリカが付き、イラン、イラクに対して膨大な軍事支援をし、別名米ソ代理戦争と言われるほどの戦争となりました。当然その被害も大きく、戦争は約8年続きましたが、終わった頃には、留まっていた日本の企業はプラント存続どころか、企業そのものの存続に影響が出るほどの事態となっていたそうです。

 日本から見れば中東はかなり遠くの国のように見えますが、この中東の出来事は常に世界全体に大きな影響を与えてくるのです。聖書から見れば、中東、特にイスラエルがその中心であり、イスラエルに関わる出来事は、他の中東諸国に勝って大きな影響力を持ちます。

 今回、このイスラエルとイランが本格的に戦闘状態となったことで、多くの国々が慌てるのも当然といえましょう。聖書、特に旧約聖書の預言書であるダニエル書9章を見ると、イスラエルを中心とした中東の混乱を終わらせるためか、やがて世界的な政治リーダーが中東を中心とした恒久的な平和条約を締結することが書かれています。

 もちろん、預言書にはさまざまな解釈があることは良く知っています。この恒久的中東和平が締結されてから7年で今の世界が終わることが書かれています。そして次の世が来ます。この次の世に入ることができるのは、イエス・キリストを自分の贖(あがない)い主と信じた者だけです。

 今回のイスラエルとイランの戦争も、間違いなくこの恒久的中東和平が近づいていることのしるしです。

 時はそれほど多く残されていません。イエス・キリストを信じるのはまさに今のこの時であると知ってください。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月11日水曜日

 ラザロの復活

 ヨハネの福音書11章のことです。ベタニヤのマリヤの兄弟ラザロが、病気にかかっていました。そこで、姉妹たちは、イエスの所に使いを送って、言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

 イエスはこれを聞いて、言われました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」。イエスさまは、マルタとマリヤ、そしてラザロを愛しておられました。それで、ラザロが病んでいることを聞かれても、そのおられた所になお二日とどまられました。そして、その後「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われました。イエスさまは、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」とおっしゃいました。

 お弟子たちは、「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」と言いました。それに対して、イエスさまははっきりとおっしゃいました。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところに行きましょう。」。主はご自分がなされることを知っておられたのです。ところが、お弟子のトマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と、とんちんかんな事を言います。彼もイエスを信じてなかったのです。

 イエスが着いた時、ラザロは墓の中に入れられて4日もたっていました。当時のユダヤ人の言い伝えの中で、死んで3日以内ならまだ死者の霊が黄泉(よみ)には行っておらず、生き返る可能性があると考えていたようです。しかし、4日たっていたら、もう生き返ることは絶対に無い、と考えられていました。ですから、ラザロの復活はメシヤでなければできない奇跡でした。このような状況の中、マルタは真っ先にイエスを迎えに行きました。そして言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになるものは何でも、神はあなたにお与えになります。

 イエスは言われます。「あなたの兄弟はよみがえります。」。マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えました。

 すると、イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。

 マルタは、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」と立派な信仰告白をしました。

 多くの人が泣いていました。また、イエスも涙を流されました。そして、死に対する憤りをもって、墓に来られました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました。

 「その石を取りのけなさい。」とイエスは言われました。マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と返事をします。イエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と彼女に言われました。そこで、彼らは石を取りのけました。

 イエスは目を上げて言われました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。

 そして、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出てきなさい。

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布に巻かれたままで出てきました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」と主イエスは言われました。

 ラザロは復活したのです。これを見た多くのユダヤ人がイエスを信じました。

 死は、普通私たちにとって絶望です。しかし、イエスはこの場所で、それに打ち勝つ力をお持ちであることを示されたのです。イエスさまご自身も、十字架で死んだ後、3日目によみがえりを果たされました。イエスさま以降、死は、もはや人類を支配しないのです。死に打ち勝つまことのいのちが、イエスのうちにあるのです。そのことを示すために、聖書のこの箇所が書かれました。

 イエスを信じる者は、死んでも生き、生きていてイエスを信じる者は決して死ぬことがありません。これが、イエスを通して神が約束されていることなのです。このことを、あなたも信じましょう。イエスさまは、神です。この方のうちには永遠のいのちがあるのです。私たちは、もはや死を恐れる必要はないのです。

 それゆえ、イエス・キリストをあなたの個人的な救い主として、心にお迎えいたしましょう。イエスは、あなたのすべての罪を赦し、あなたに定められている死からいのちへとあなたを移し、永遠のいのちを与えてくださいました。それが確かであることを示すため、イエスは死んで4日もたち、どう考えても望みのないラザロをよみがえらされたのです。コリント人への手紙第一1555節に「死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」と書かれている通りです。

 望み得ない時に望みを抱いて信じる、これが信仰です。そして、この神への信仰は決して失望に終わることがありません。死に打ち勝ったイエス・キリストを信じ、死に打ち勝つ勝利を得ましょう。

 すべて病は神の栄光が現されるためのものです。あなたも必ず神の栄光を見ます。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月4日水曜日

ベタニヤのマリヤ

 エルサレムに程近いベタニヤという村に、イエスが愛されている二人の姉妹がいました。姉の名はマルタ。妹は、マリヤと言います。同じ姉妹であるにもかかわらず、ふたりは正反対な性格でした。気配りにたけている出来の良い姉とマイペースな末の妹、といったところでしょうか。

 ルカの福音書10章には、この二人の様子が詳しく描かれています(38節~42節)。イエスさまが旅を続けておられる時、ベタニヤに入ったところ、マルタは喜んでイエスさまを家にお迎えしました。マルタは、これもして差し上げたい、あれもして、それから、といろいろともてなしのために気が落ち着かず、実際、猫の手も借りたいほどの状況でした。ところが、妹といえば、イエスさまの足もとに座ったまま動かず、じっとイエスさまの語ることに聞き入っているばかりです。この忙しい時に一体お前は何をやっているの!、とさぞじれたことでしょう。

 それで、憤ったマルタはついイエスさまにマリヤを非難してこう言います。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。

 それに対するイエスさまの答えはこうでした。「マルタ。マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」。主は、マリヤの在り方を、マルタの言い分よりも正しいとされたのです。

 それから月日がたち、過越の祭りの6日前に、イエスさまはまたベタニヤのマルタとマリヤの家に来てくださいました。イエスさまが死人の中からよみがえらされた彼らの兄弟ラザロとマルタ、そしてマリヤがいました。人々はイエスのためにそこに晩餐(ばんさん)を用意しました(ヨハネの福音書12111節参照)。マルタは熱心に給仕していました。

 晩餐のたけなわ、皆の前でマリヤは驚く行為に出ます。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油300グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐったのです。家は香油の香りでいっぱいになりました。

 イエスを裏切ろうとしていた、イスカリオテ・ユダはこれに憤慨して言います。「なぜ、この香油を三百デナリ(およそ人の年収に当たる)に売って、貧しい人に施さなかったのか。」

 しかし、イエスさまはこう言われます。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。

 マタイの福音書では、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(2613節)とイエスさまは語っておられます。

 ナルド油というのは、乙女が結婚式に備えて少しずつためておく香油だそうです。それを、すべてイエスさまに注いだマリヤの気持ちを主は受け止めてくださっていました。マリヤは愛するイエスさまに対して、自分にできる限りのことを行ったのです。マリヤは主が十字架でお亡くなりになることが近いことを、知っていたのです。なぜなら、そのことをイエスさまが既に話しておられたからです。御足のもとで、主のことばを聞き入っていたマリヤだからこそ、イエスさまのおことばによって、主の時がそこまで迫っていることを知り得たのです。

 対するお弟子たちは、イエスが何度も、人の子は十字架にかけられ殺されること、そして、3日目によみがえることを話されたのにもかかわらず、それを理解し悟ることができませんでした。イエスさまに死なれては困る、とまだ自立できていない心の状態があったのかもしれません。また、ユダヤ人の王イエスという自分たちの望むメシア観を捨てきれず、主が亡くなることを受け入れられなかったのかも知れません。いずれにせよ、主イエスのことばはお弟子たちの心に入って行きませんでした。ですから、ゲッセマネの祈りでも眠りこけてしまい、目を覚ましていなさいという主のことばにも聞けなかったのです。そして、ふたを開けると弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。

 しかし、何の肩書きも立場もない一人の信者にすぎないマリヤが、弟子たちが聞けなかった神のことばをしっかりと聞いていたのです。主の足もとで一心に聞いていたのがマリヤでした。ですから、主が、お亡くなりになることを知って、埋葬の用意をしたのです。

 そればかりではありません。イエスさまが復活することもマリヤは聞いて捉えていました。聖書にはイエスの墓に多くの女たちが向かったことが記されていますが、その中にベタニヤのマリヤの名はありません。イエスさまが、ご自分のご生涯について語ったことをマリヤはじっと聞いて捉えていたのです。そして、それをしっかりと心に留めていました。

 イエスさまは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」と語られました。私たちは、この一つを聞けているでしょうか。神のことばに耳を傾けているでしょうか。これこそが、最も大切なことだと、ベタニヤのマリヤを通して主が語っておられると思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年5月28日水曜日

放蕩息子

 ルカの福音書15章で、有名な放蕩(ほうとう)息子のたとえという箇所があります。

 ある人に、息子が二人ありました。弟は放蕩息子でした。まだ父が存命中なのに、父に身代を分けてくれるよう願い出ました。父は、そのわがままを聞き入れてやり、財産を兄と弟に分け、弟の分を彼に与えました。

 それから、幾日もたたないうち、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。しかし、彼はそこで放蕩三昧を尽くして、湯水のように財産を使い果たしてしまいました。

 そこに、その国にききんが起こったのです。彼は食べるのにも困り始めました。それで、ある人の所に身を寄せました。その人は彼を畑にやって、豚(当時忌み嫌われていたもの)の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、誰一人、彼に与えようとはしませんでした。世間は、放蕩息子が思う以上に厳しいものでした。

 こうして、われに返った放蕩息子は、こう言いました。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。』

 こうして、彼は故郷の父のもとに行きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は息子の姿を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。放蕩息子は言います。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。

 ところが父親はしもべたちに言いました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」。こうして、祝宴が始まりました。

 そこに仕事を終えて帰って来たのが兄息子です。これはいったい何事かと尋ねると「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」。すると、兄は怒って、家に入ろうとしませんでした。

 父は出て来て、いろいろとなだめてみました。しかし、兄は父にこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」。もっともな言い分だと思います。

 しかし、父は彼に言います。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。

 この例話が書かれたのは、一つには神の愛がどれほどあわれみ深いものかを示すためだと思います。神は、家出した放蕩息子であっても彼の事を忘れてはおらず、いつ帰って来るかと常に心を寄せていました。それでまだ家から遠かったにもかかわらず、彼を見つけたのです。そして父は、彼をかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。自分に向かって、「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません」と悔い改めている放蕩息子を見ると、父は(神は)、罪のすべてを赦して、助けの手を伸べずにはいられないのです。ここに神の深いあわれみの心が描かれています。それゆえ、祝宴を張って祝ったのです。神の愛とは、このようなものなのです。

 しかし、兄はそれが不満でした。兄が立っていた所は、律法です。子山羊一匹下さらなかったと父を責めました。父の恵みも愛も知らないのです。父は私のものは全部お前のものだ、と言ってくださいました。兄が弟の立場に立っても、父は同じようにしてくださったでしょう。でも、それが兄には見えていなかったのです。なぜでしょうか。それは兄が、父との愛による関係ではなく、ただ律法の内にある関係にしか立っていなかったからです。

 イエスさまは、マタイの福音書で「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(1920節)ということばを語られました。

 忠実だった兄は、本当は一番父の近くにいて、誰より父の愛なることを知っているはずでした。しかし、父の愛を見たのは、放蕩を重ねた罪人である弟の方でした。

 誰でも神に立ち返るなら、そのすべての罪を赦していただけます。神はイエス・キリストを罪の代価として私たちに与えてくださったからです。それゆえ神は、もはや私たちに罪をとがめてはおられません。律法を守ることによっては決して知ることのできない愛を、神は人間に注いでおられるのです。弟はその愛にあずかりましたが、兄はそれを知ることができませんでした。

 私たちもまた、心をかたくなにすることなく、愛なる神を知りましょう。神の愛は、人の思いをはるかに超えて深いのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月21日水曜日

 ザアカイ

 ルカの福音書19章で、ザアカイという人物が登場します。「彼は、取税人のかしらで、金持ちでした」。この一節から、彼がおおよそどういう生き方をしてきたかが分かります。

 いわゆる拝金主義です。取税人は、ローマへ支払う税の取り立て屋であり、しかもその上に上乗せまでして取り立て私腹を肥やしていたと言われています。それゆえ、かれらはユダヤ社会では嫌われ者でした。その取税人のかしらというのであれば、もうけのために相当悪いことをしてきたことでしょう。

 箴言178節に「わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。」と書かれています。これが、お金の力です。わいろの見返りというものは、必ず贈り主に帰ってきます。どうやって財産を築いたか、ザアカイはお金の力を知り尽くしていた人だと思います。そして、お金以外信じられない人になっていただろうと思われます。

 あるファーストレディーが、「私、お金のない人はだめなの」と公の場でこう語ったことを聞きました。世の中には本音としては彼女の言葉に同調する人は多いと思います。では、お金持ちはぜいたくか、といえば必ずしもそうではないのです。金持ちほど、お金を使いたがらない傾向があります。それは、彼らがお金を信じているからです。信じるお金が減ることは耐え難いことなのです。蓄え蓄え、お金に仕えるような人生を送り、またお金を持っている自分にうぬぼれていますが、それがみじめな生き方であることには全くというほど気づいていません。確かにお金は、至る所で通用する力があるからです。しかし、こんな現実だけを見るだけの考え方で果たして良いのか、と私は疑問に思います。

 イエスさまは王であるのに、ご自分の国である世に来られた時、貧しさの中に身を置かれました。自分を富ますことをせず、人々にご自分を与え尽くされました。また、マタイの福音書6章には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(2021節)と語られ、改めて私たちの宝、私たちの心がどこにあるかと問われました。

 そして、24節でははっきりとイエスさまは「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とおっしゃいました。

 こんな中で、ザアカイはイエスさまに出会ったのです(ルカの福音書19110節参照)。ザアカイは、地元で評判になっているイエスさまにぜひ会ってみたいと思っていました。何かが、ザアカイの心を動かしていたのです。しかし、彼は背が低かったので、群衆のために見ることができませんでした。もしかすると、背が低いことはザアカイのコンプレックスで、それが彼を拝金主義に向かわせたのかも知れません。しかし、群衆は彼を嫌っていたので、誰一人として彼に場所を譲ってくれる人はいませんでした。

 そこで、ザアカイは先回りをして、いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言うのです。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えました。

 人々は、あの方(イエス)は罪人のところに行って客となられた、と言ってつぶやきました。しかし、素晴しいことがすでに起こり始めていたのです。

 ザアカイは立って、主イエスに言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。
 イエスは、彼に言いました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

 イエスさまに出会って、ザアカイは救いを得たのです。イエスさまの愛が、彼を変えました。彼は、イエスさまがどんな方か、また自分を愛してくださっていることが分かったのです。今や、ザアカイの価値観は一変しました。お金ではなく、主の内にこそ永遠に続く価値があることを彼は知ったのです。それゆえ、先ほどのような言葉が、彼の内から出てきたのです。

 人をキリストに近づけるのは、お金ではありません。心です。あなたの宝とするものが何であるかが、あなたの心を現しています。ザアカイは、その心をお金から主イエス・キリストに変えました。それで、主もまた「きょう、救いがこの家に来ました。」と言ってくださったのです。

 テモテへの手紙第一610節にこのようなみことばがあります。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」。金銭を愛することは、ろくなことではありません。確かにお金は必要ですが、それが目的になってしまった時、大きく人生を誤ってしまうことを私たちは知っておきましょう。まことのいのちを得ることも、お金では買えず、ただキリストの恵みによることを忘れないでください。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月14日水曜日

 神の心をわが心とする

 出エジプト記24章で、主は「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう」と仰せられました。モーセが登ると、雲が山を覆い、6日間主の栄光がシナイ山を覆っていました。7日目に主はモーセを呼ばれ、モーセは、4040夜、山にいました。

 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられた時、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられました。(3118節)

 ところが、モーセがあまりにも手間取っているのを見て、民はアロンに言います。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

 それで、アロンは彼らに「耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい」と言ったので、民が持ってくると、のみで型を造り、鋳物の子牛にしました。子牛そのものを神としたわけではありません。目に見えない神の台座として造ったものと思われます。

 しかし、彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「あすは主への祭りである」と呼ばわりました。そして、翌日、朝早く全焼と和解のいけにえをささげ、民は座っては、飲み食いし、立っては、戯れたのです。(出エジプト記32章参照)

 主は、モーセに「さあ、すぐ降りて行け。彼らは早くもわたしの命じた道から外れ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、これがエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ、と言っている」と語り、民を絶ち滅ぼそうとされます。モーセが嘆願したので、主は災いを思い直してくださいましたが、宿営に近づき、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がり、板を砕き、子牛を火で焼き、粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませました。

 敵の物笑いとなっているのを見てとったモーセは、宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言ったところ、レビ族が皆、彼のところに集まりました。そこで、モーセは、彼らに「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」

 レビ人は、モーセのことば通りに行いました。およそ三千人が倒れました。

 モーセは「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために」と言われました。

 こうして、レビ族は、他の部族から取り分けられ、幕屋の奉仕をもって主に仕えるレビ人とされたのです。祭司アロンに仕え、またイスラエルの初子の代わりとされました。主は、レビ人はわたしのものである、と言われました(民数記31213節参照)。彼らはその行いによって、いかに大きな祝福と報いを受けたことでしょう。彼らは、とこしえまでレビ人として、祭司に関わる職を与えられました。それは、彼らが、主の心をわが心としたからです。

 イエス・キリストも同じようなことを言っておられます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません。(中略)自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」(マタイの福音書103739節抜粋)

 主を愛するということは、主の心をわが心とすることです。それは、自分以上に主を愛することであるのです。レビ人は、主につくゆえに同胞を殺しました。同胞への愛以上に、主への愛が勝っていたからです。そして、主はそれを良しとされ、レビ人を祝福し、特別な任務に就かせてくださったのです。

 このことは、旧約時代だけで終わるのではなく、その神への姿勢は新約時代にも受け継がれていることをイエスさまは示されました。イエスを愛する者は、イエスを何よりも第一にするということがなくてはあり得ません。そして、レビが、レビ職を受けたように、イエスのために自分のいのちを失なったものが、かえって自分のいのちを自分のものとするのです。

 歴代誌第二に、このように書かれています。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(169節)

 私たちの心は、主と全く一つになっているでしょうか。主よりも、自分のいのちや父母を愛することは情としてあるものです。でも、レビは、あの時主の側に立ったのです。主の心をわが心としたのです。このような人々を主は求め、また用い報いてくださるのです。私たちも情にさえも死んで、いのちさえも惜しまず、主の心をわが心として従えるよう、祈り求めてまいりましょう。主は、その心を見、確かにその心に報いてくださるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月7日水曜日

罪の赦しと救い

 罪の赦しということを考えると、それは人間にはできないことであると分かります。旧約時代には、罪の贖(あがな)いのためには、律法によって細かな規定が定められていました。罪過のためのいけにえは、雄牛の頭に手を置き、それをほふり、聖所の垂れ幕に血を七たびふりかけ、その血を祭壇の角に塗り、血を全部祭壇の土台に注ぎ、取った腎臓や脂肪、小葉を祭壇の上で焼き、火によるささげ物として煙にします(レビ記4章参照)。人々はこれを繰り返し行い、罪の贖いをしました。

 へブル人への手紙1013節には「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。(中略)かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」と書かれています。

 そして、イエスさまはこう言われたのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」(57節)

 これは、イエス・キリストが受肉し、世に来られ、十字架の死によって、またそれに続く復活によって、私たち人類のすべての罪を贖ってくださることを語っています。御子イエスは、ご自分がご自分の肉によって、人類の罪を贖うという神のみこころを知った上で、世に来られ、苦しみと死と復活を通してそれを全うされたのです。

 そして、このように書かれています。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(1213節)。罪の赦しは、イエス・キリストにおいて完成したのです。

 ヨハネの手紙第一には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(19節)と書かれています。ですから、今や、どんな罪でも赦されない罪はありません。神の前で罪を言い表すだけで、すべての罪が赦されます。そして、恵みによって罪の生活から立ち直る力までも与えられるのです。

 けれども、ある方々は、自分のこの罪だけは決して赦されない、赦されてはならない、と思っておられます。しかし、どうか赦されることを信じ、受け入れてください。

 人は自分の罪を自ら償うことはできないのです。自分の罪を赦していただくために人は何を差し出すことができるでしょうか。何千年もの間、人類は律法に従い牛や羊をささげ、罪と格闘しました。しかし、誰一人として、罪を帳消しにできた人はいませんでした。罪は依然として残るのです。罪の前に人は無力です。ただ無条件に赦していただくより他はないのです。そして救い主(メシア)であるイエス・キリストだけが、罪を赦すことがおできになるのです。

 ヨハネの福音書316節で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と語られています。御子イエスさまは、私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つために、義なる神と私たちの間を断絶していた罪の問題を、十字架によって解決してくださったのです。それは、神の愛とあわれみとによります。

 詩篇103篇にもまたこのように書かれています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(812節)

 私は、東が西から遠く離れている、というこの表現を、とても気に入っています。御子を信じる者は、その罪、咎、そむきから遠く離されているのです。東が西から遠く離れているほどに。

 罪の赦しのために神はどれほどの犠牲を払われたことでしょう。それらはすべて、神が用意し神が完成させてくださったものです。人が関わったところは一つもありません。ですから、それは「恵み」なのです。

 イエスさまに関して、ヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」と語り(ヨハネの福音書114節)、また「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(17節)と語っておられます。モーセによって与えられたのは律法で、私たちを救うことはできませんでした。しかし、赦しという恵みとまことは、イエス・キリストによって実現し、私たちを救いに導き入れたのです。

 ですから、この恵みにしっかりと立ち、イエス・キリストによる罪の赦しを信じてください。私たちは、十字架を信じることによって救われ、罪を告白することによって赦されます。そして、赦されたあなたの上に、神は豊かな祝福を与えてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月30日水曜日

もし、あなたが本当に困っているのなら

 人生にはいろいろな事が起こります。例えば、突然見舞われた不治の病や思いもよらぬ事故。陰湿ないじめや、お金がないこと。夫婦間のすれ違いや、親しい人の死。そして戦争やききん等々。本当に人生には、特に最近は、予期せぬことがいろいろと起こっています。

 誰にも相談できないこと。解決の糸口が見いだせないこと。あらゆる面で行き詰まり、もし、あなたが本当に困っているのなら、その時にはイエス・キリストのもとに来てください。イエスさまの前にあなたの悩みを、また苦しみを打ち明けてください。その心を、イエスさまに知っていただいてください。死を考えるほど追い詰められているのなら、なおさらのことです。

 イエス・キリストまた神は、あなたを拒まれるような方ではありません。信者であろうがなかろうが、神はすべての人にとって神です。あなたを造られたあなたの父です。あなたを顧みてくださらないわけがありません。また、十字架の上で自分のいのちさえ投げ出して、私たちの罪を贖(あがな)ってくださったキリストが、どうしてあなたを助けてくださらないことがあるでしょう。必ず、脱出の道はあるのです。絶望する中にも、神の解決はあるのです。神は、あなたの救いとなられます。そのことをぜひ知っていただきたいと思います。

 そして、困難にある時、神はそれを乗り越えられるように、私たちにまず慰めを与えてくださいます。聖書のコリント人への手紙第二1章には、このように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(中略)それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(略)その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(3節~6節まで抜粋)

 神は苦難を許されると同時に、慰めも与えてくださいます。これが人生の素晴らしい所です。世には「さばきの神」というイメージを持っておられる方は多くても、「慰めの神」を知る人は少ないと思います。しかし、先ほど挙げたコリント人への手紙第二1章では、「慰めの神」が描写されています。神は、苦しむ私たちを、ねんごろに慰めてくださるのです。苦難にある時は、神はご自身の「隠れ場」に私たちを連れて行ってくださり、ひそかに休ませてくださいます。

 顧みれば、イエスさまは、弱り果てた私を立たせてくださるお方でした。渇いた口に水を注いでくださるお方でした。マタイの福音書では、「いたんだ葦を折ることも無く、くすぶる燈心を消すことのない」お方だというふうに書かれています(1220節参照)。真実の愛で私たちを愛してくださっています。

 そして、マタイの福音書では、イエスさまご自身こう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(112830節)

 これは、すべての人に向かって語られていることばです。そして、救いのことばでもあります。イエス・キリストを、自分の救い主と信じることが、真に人を安息へと導くのです。イエスのくびきは軽いのです。それゆえ、重荷をおろしてイエスさまの十字架の救いを信じましょう。問題もまた神であるイエスさまによる解決があります。

 イエスさまが、十字架によってなしてくださったことは、あなたの罪を赦すことです。あなたのうちの、自分を責める思い(それは罪から来ますが)、行き場のない問題、そのすべてを、イエスさまはあなたの代わりに担ってくださいました。ですから、今、イエスさまを信じ、イエスさまのもとに帰りましょう。

 神の愛は、イエスさまによって体現されているのです。そして、それは私たちから出るものではなく、神の恵みによります。キリスト・イエスの恵みによって私たちは、どのような状況の中にあっても、希望となる力を頂くことができるのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月24日木曜日

自分に酔いしれる

 高慢ということは、自分に酔いしれた状態であると思います。ルカの福音書18章の9節から12節にかけて、神は興味深いたとえを話されました。

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとり人はパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 パリサイ人は当時のエリートで、取税人は税を取り立て、しかも往々にして不正をして同胞から決められた以上に取りたてて私腹を肥やしていました。それで、罪人として皆に嫌われていました。一方、パリサイ人は皆に尊敬されていて、人々の上に立って先生と呼ばれていました。

 それゆえパリサイ人は、宮に行き、立ってこのような祈りをしました。「神よ。私はほかの人々をようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。

 これは、パリサイの誇りでした。こんなにも主に仕えている私というものに、並々ならぬ自負があったと思います。確かに週に2度断食をしたり、律法を落ち度なく行うことはなかなかできないことです。それを守り行っていることは、当然、自分を褒める思いがあったでしょう。地位もあり、人の上に立ったパリサイ人は、知らないうちに自分の行いに酔いしれてしまったのです。もちろん、なすべきことは忠実に行ったでしょうから、非難の対象とは言えないでしょう。しかし、自分を高くするあまり、人を裁く高ぶりが生じたのではないでしょうか。

 それは「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」という一文に表れていると思います。

 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。

 イエスさまは、言われました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 地位や働きによって、知らぬ間に自分に酔いしれてしまうということは、どの世界においてもよくあることです。一国の首相から企業のトップに至るまで、不祥事によって辞任するケースを私もたくさん見てきました。高ぶりは滅びの前ぶれなのです。後になって、後悔してももう元に戻ることはできません。いかに多くの人が高ぶりの故に人生を棒に振ったことでしょう。

 神もまた高ぶる者を退け、心のへりくだった者をいつくしまれます。心が低いということは、神の前の美徳です。イエスさまは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と語られました。(マタイの福音書53節)

 それゆえ、常にキリスト・イエスに救われたあの日のことを思い出しましょう。その日から神の前には何も変わっていないのです。教会が大きくなると教会の中でも、社会同様に地位や立場が与えられてくるでしょう。しかし、イエスさまに出会ったあの信仰の原点を忘れてしまうなら必ず、ずれてしまいます。最悪の場合は退けられてしまいます。

 私たちは、サタンの小さなほめ殺しの言葉によって、いとも簡単に自分に酔いしれてしまいます。しかも、なすべきことは行っているのですから、まさか自分が誇っているとは思いもしないのです。

 パリサイ人は自分が神に仕えていることを誇りとし、自分に酔いしれ、自分を義人とし、取税人を罪人であるとさばいてしまいました。これはもう、神の前では高慢という罪です。

 バビロンのネブカデネザル王は、神が彼を立て祝福していたのにもかかわらず、「この大バビロンは、私の権力によって(中略)私が立てたものではないか。」と言った瞬間、ただちに彼は宮殿から追い出され、野の獣とともに住むようになり、七つの時が過ぎるまで、捨て置かれました(ダニエル書42932節参照)。彼もまた、高ぶりの一線を越えてしまったのです。

 神のあわれみを求めた取税人が、神の前には義とされました。それゆえ私たちは意識して、日々へりくだりを求め、低い心を求めていきましょう。

 「神は高ぶるものに敵対し、へりくだるものに恵みを与えられる」(ペテロの手紙第一55節) 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月16日水曜日

ヨブと真珠

 ヨブ記のヨブは、いわれなき試練に置かれたことで有名です。多くの困難にある人が、ヨブのことを思い起こします。いわれなき試練というのを神は許されるのでしょうか。許されます。

 TLEA主催の白馬スネルゴイキャンプで、今や、100万人のフォロワーを持つインフルエンサーのあきand光一さんが、お話をしてくださいました。カイロプラクティックのクリニックを経営していた光一さんですが、ある時、家も財産もすべて失ってしまった、という事態になりました。まさに、ヨブ記のヨブに起こったことと同じではありませんか。

 その苦しみの年月は、7年にも及んだといいます。お二人は、ロサンゼルスを出てハワイに行き、そこで苦しい時を過ごしました。その時の事を語ると、光一さんは「困難にある人が、今いるかもしれませんが、必ずそこを抜けますから」と涙ぐんで私たちを励ましてくださいました。

 その時、私も自分に許された困難な日々のことを思い起こしました。18歳の頃、私はイエス・キリストを信じ、翌年のクリスマスの受洗を楽しみにしていました。しかし、父からの許しが得られず、強行するつもりでいましたが、迷っていました。

 その時、重い病気になったのです。神経の病気で、ベッドに寝たまま動くことさえできませんでした。こんなにつらいなら自殺したいと思っても、窓のところまでも自分で行くことができないのです。父は心配して、「代われるものなら代わってやりたい」と言ってくれました。「じゃあ、病気が治ったら洗礼を受けていい?」と聞いたら、「受けていい」と許してくれました。私は、このために病気になったのだ、と自信満々になって、クリスマスの洗礼前には良くなって東京に戻れると思っていたのです。

 ところが、現実はそんな甘いものではありませんでした。完全に治り東京に再び帰るまでには2年かかりました。動けないこと、その中で、私は主に叫びました。受洗はどう考えても神のみこころです。また、病院では毎週の礼拝の恵みも受けられません。そんなことが神のみこころであるわけがないと思いました。完全に神から断たれたように思いました。何の罪を犯したのか自分を探りました。ヨブのように。しかし、ヨブと同じように答えは出ませんでした。

 東京の牧師は、イエスさまが羊たちを大きな手で囲んでいる絵はがきを送ってくださり、「このことを感謝してみてください」と書かれていました。そのご愛には本当に慰められました。けれども、私はこんなこととても感謝できるわけがない、と一蹴したのです。まだ、感謝に対して目が閉ざされていたのです。そして、相変わらず苦しい毎日を送っていました。

 ある日のこと、神さまが、私にその苦しみについて教えてくださいました。それは、あこや貝のことでした。あこや貝は、真珠を作る貝です。真珠を作るには、まずあこや貝に傷を入れそこに核となるものを押し込みます。すると、それが痛いのであこや貝は、自ら液を出して核を覆おうとします。そして、それが何年もかけて、真珠に育っていくのです。

 「あなたに許されたことは、これである」と神は言いました。「今は痛いが、この中で神は宝石のような真珠をやがてあなたに造ろうとしているのだ」と。もちろんこの一言で、すぐに私の悩みや苦しみが消えたわけではありません。しかし、19歳から、今60歳になって、私は確かに神のおっしゃる通りであったと思います。

 思いもしない試練が、突如あなたを襲うかもしれません。その理由を考えても分からないかもしれません。

 イザヤ書にこういうみことばがあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ- 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(5589節)

 神さまの計画というのは、私たちの思いを越えて、はるかに高いのです。

 ヨブは、神さまがどんな方か、試練を通して学びました。神は、ヨブに「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」と言いました(ヨブ記402節)。ヨブは、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。(中略)それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」と申し上げました(ヨブ記4226節)。

 神は、その後、ヨブの前の半生より後の半生をもっと祝福されました。今いわれなき試練にある方、どうか感謝してください。必ずそれが抜ける時が備えられています。先が見えなくても、必ず試練には終わりがあります。そして、試練を抜けると試練が許されたこと以上の祝福を必ず受けます。

 そこにはより優れた神さまの計画があるのです。ヨブは失ったものの2倍を受けました。しかしそれ以上に優れた祝福は、神を知るということではなかったかと思います。そして、これこそが神が与えてくださる真の祝福ではないかと私は思います。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月9日水曜日

系図の学び

 最近、私の信仰生活はとても充実しています。というのは、今まで苦手として、読み飛ばしてきた新旧約聖書のある部分を、注解書の助けを借りながら丁寧に読むことができたからです。

 特に苦手であったのは、歴代誌第一です。綿密な系図が記載されていますが、誰が誰の子であるのかなどということは、また誰がどう任命されたのかなどは、正直なところ、みことばから日々の祝福を得たいだけの私にとっては、あまり魅力的なものではなかったからです。

 マタイの福音書1章も同じ理由で、読み飛ばしていました。読んでも頭に入らないのです。このことを通して神さまが何を語ろうとしているか、まったく分かりませんでした。しかし、今では系図には意味があること、系図こそ神の前に非常に重要であることを今回初めて知ることとなりました。

 今、日本人が北イスラエルの10部族の一つ、特にエフライム族ではないかということが、言われ始めています。これは、前より語られていたことではありましたが、まともに受け取る人は少なく、多くの人が一つのロマンとして聞いていました。

 ところが、イスラエルのアミシャブをはじめとする調査機関などによって、いよいよ科学的にそれが立証されようとしています。日本においても、皇室には、神武天皇を祖とする皇統の系図が綿密に書き記されて残されています。ここには、何か大きな意味が、神さまのご計画があることを思わされます。

 旧約聖書のエゼキエル書には、「見よ。私は、エフライムの手にあるヨセフの杖とそれにつくイスラエルの諸部族とを取り、それをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする」(3719節)という預言があります。南北二つに分裂してしまったイスラエルが、再び一つになることを神は語っておられるのです。その預言が確かに成就するその時に備えて、神は系図に意味を持たせているのではないでしょうか。

 創世記のアブラムが99歳になった時、主はアブラムに現れ「あなたは多くの国民の父となる」という契約を結ばれ、その名をアブラハムと変えられました(創世記17章参照)。同6節、7節では、「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出てこよう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」と書かれています。あなたとは、アブラハムであり、あなたの後の子孫とは、イエス・キリストのことです。両者において契約を立てると、はるか昔から神は語っておられるのです。

 ご存じの通り、聖書は旧約聖書と新約聖書の二つで成り立っています。そして、驚くことに新約聖書は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイの福音書11節)という一節から始まるのです。神がいかに系図を大切にしているか分かるでしょう。

 私が軽く読み流していた系図の記載には、これほど大きな意味があるのです。こういう訳ですから、私たちは、聖書を読む時に自分勝手に好むところだけを読むのではなく、たとえ意味が分からなくても、注解書に頼みつつも、まんべんなくすべてを読むようにしましょう。聖書通読・聖書研究は、私たちに大きな霊的祝福を与えてくれるものなのです。

 テモテへの手紙第二316節にはこう書かれています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月2日水曜日

不妊の女に起こったこと

 アブラムの妻のサライは不妊の女でした。救い主の誕生を待望するイスラエルの女性にとって、不妊ということはいかに苦しく、また悲しいものか、ご存じでしょうか。ハンナは、主の宮で泣いてこのことを主に訴えました。ラケルは、「私に子どもを下さい。でなければ私は死んでしまいます。」と夫ヤコブに詰め寄りました。また、恐れ多いかもしれませんが、皇后雅子さまが愛子さまを授かるまで、どれほどのお苦しみをなさっていたか、私たちはメディアを通して知っています。

 子どもを授かることは、子孫を得ることであるので、女にとっても光栄なことでしょう。命の恵みにあずかることは、神が下さる恵みであり、人ができるものではないのです。ですから不妊の問題というのは、ひときわ強い悲しみがあり、人知れぬ心の痛みがあるのでしょう。

 サライの不妊もまたアブラム家にとって、影を落とす問題であったでしょう。それで、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、サライは自分の女奴隷であるハガルを連れて来て、ハガルによって子を得ようとします。ところが、ハガルは身ごもると、自分の女主人を見下げるようになりました。サライの気持ちはなおかきむしられます。それでサライは彼女をいじめたので、ハガルは逃げました。ハガルがその子イシュマエルを生んだのは、アブラハムが86歳の時でした。

 アブラハムが99歳になった時、主はアブラハムに現れ、あなたと、あなたの後の子孫との間に永遠の契約を立てると語られ、契約のしるしとして割礼が導入されました。そしてこの時、彼らの名が変わるのです。アブラムはアブラハムに、サライはサラにその名を神が変えました。

 そして主は、こう言われたのです。「わたしは彼女(サラ)を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか」。そして、「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」と言いました。

 神は、「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」と語られ、離れて上られました。(創世記17章)

 創世記18章。主は再びアブラハムに現れました。主は「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻ってきます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」と言われました。サラはそれを天幕の入口で聞いていました。サラには普通の女にあることがすでに止まっていました。それでサラは心の中で笑って言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

 そこで、主がアブラハムに仰せられました。「サラはなぜ笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」。サラは、恐ろしさにかられて「私は笑いませんでした。」と打ち消しましたが、主は「いや、確かにあなたは笑った。」と仰せられました。

 そして、創世記21章。神がアブラハムに言われたその時期に、サラは年老いたアブラハムに男の子を産みました。イサクの誕生です。アブラハムは8日目に彼に割礼を施しました。その時アブラハムは100歳でした。イサクは、アブラハムの契約を受け継ぐ子として約束通り産まれたのです。

 これらの話から、私が皆さんに分かち合いたいことがあります。一つは、命は神のもとにあるものであるということです。人の領域ではないということを分かち合いたいです。子どもをつくる、ということを言う人がいますが、命は授かるものだと思います。科学的な方法で受胎を求めたとしても、授けてくださるのは神なのです。

 そしてまた、子というのは、必ず神さまの召し、計画があるということです。イサクも、アブラハムへの契約の中に自分の誕生がありました。それゆえ、神さまとの契約の成就の時が来るまで、その誕生が待たされることもまたあると私は思います。

 三つ目は、神には不可能はないということです。神が語られたことばなら、人間的には笑うような不可能なものであっても信じることを選びましょう。アブラハムもサラも、約束をすぐには信じることはできませんでした。人間的には不可能なことは分かりきっているからです。それでも、神の時が来た時、神のことばはその通りに実現しました。

 ルカの福音書でも大祭司ゼカリヤは、不妊の妻エリサベツとの間に後のバプテスマのヨハネを授かるという、御使いガブリエルが告げたことばを信じることができず、そのことばの成就の時までものが言えなくなりました。しかし、時が来ると約束通りヨハネが誕生しました。

 ハンナもリベカも、神は覚えてくださって、後に子を産みました。そこからサムエルが出、また、ヨセフが出てきたのです。彼らは聖書の中での重要人物です。悲しみは神の前に蓄えられ、やがて時満ちると大逆転が起こったのです。神は全能者であり、またあわれみ深い方です。すべてに神の祝福の計画があるのです。私たちはそれを知りませんが、神を信頼していきましょう。神はあなたの人生に最善をなされます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年3月26日水曜日

人を変えるお方

 馬橋教会の新井宏二牧師は、化学出身であるそうで、大学生の私にこう語ってくださいました。「教会にいる人は、ビーカーのような人、この人はフラスコ、あの人はシリンダー、試験管とそれぞれいろんな形はしているけれど、そこに神さまの愛が注がれると、一様に化学変化を起こして中身が変わっていくのを見るんだよ」。それが牧師の醍醐味(だいごみ)だとばかりに教えてくださいました。

 まさにその通り、イエス・キリストに出会うと人は必ず変わります。変わらない人は誰一人いません。これは世の人には考えられないことでしょう。しかし、断言できます。かつてツッパリをやっていた元カミナリ族の青年は、三浦綾子さんの『塩狩峠』を通してイエス・キリストに出会い、宣教師になって人生をキリストにささげました。これまで勉強などしたことのなかった青年は、しかし宣教地の言葉を学び、今や現地の人並みに話します。働きに必要な力は主が与えてくださるのです。

 マーリン・キャロザーズ氏は、軍の規律を犯してFBIに逮捕された青年でした。酒やたばこ、お金や女性に魅力を感じていたごく一般的な徴集兵でした。家族の祈りによって、ある日彼は内側に語りかける迫りを受けて、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる招きに応答したのです。詳しい経緯は『獄中からの讃美』というミリオンセラーになった本をお読みください。チャプレンとして歩み、晩年は私たちの神学校の先生となり「すべての事について感謝する」というキリスト教の奥義を取り次ぐ働きをしてくださいました。しかもそれを実践している人で、マーリンさんの内には暗いところが一つもありませんでした。全身が輝いていて「プレイズ・ザ・ロード、ハレルヤ!」と常に喜びをあふれるまでに現し、地上にいながらあたかも天国に住んでおられるかのような人生を歩んでおられました。

 また、聖書のパウロは生まれながらのローマ市民で、ガブリエル門下というエリート街道まっしぐらの優秀な青年でした。彼は主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、この道の者であれば男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来る許可をもらい、激しく彼らを迫害しました。ところが、ダマスコに来た時、主に出会うのです。

 彼は「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というキリストの声を聞きました。そして、キリストの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶという召命を受けました。一転して、迫害者から主のしもべへと変えられたのです。ペテロとともに、初代キリスト教界の双璧と言えるほどの働きをしました。

 聖書にこのようなみことばがあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二517節)

 私たちに働くイエス・キリストの力は、素晴らしいものです。多くの例を挙げましたが、みな同じ人間だと思えないほど、180度違った人間になりました。しかもそのすべてが、神の栄光を現す者へと変えられています。キリストを信じるということは、今までの自分に死ぬということに等しいのです。古い人は過ぎ去り、私たちは、私たちを造られた神の計画にそった本来の自分の姿に帰ってゆくのです。

 私たちは皆、罪を持って生まれてきました。そして、生きることと言えば罪の実を結ぶことばかりでした。人生に希望がありません。煩いがあり、病があり、最後に来るのは「死」です。誰もが絶望を感じています。

 しかし、こんな私たちを、神は愛しておられるのです。なぜなら、あなたを愛する故に、神はあなたをお造りになったからです。罪の力から自力で抜けることはできません。だから、神は御子イエス・キリストを世に遣わし、この主の十字架の死によって、またその復活によって私たちが贖(あがな)われ、私たちが永遠に生きるようにしてくださったのです。

 神の愛を知るなら、いわゆるその化学反応が起こると、人生は一変します。あなたは新しく造られた者となるのです。イエス・キリストを信じてみませんか。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年3月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年3月19日水曜日

 罪の目盛りが満ちて

 アブラム(後のアブラハム)は、75歳になった時「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12章参照)という主のお告げに従い、妻のサライ(後のサラ)とおいのロト、そして大勢の者たちとともにカナンの地に行きました。

 ところが、ベテルやアイに来た時、彼らの持ち物が多過ぎて、ロトとアブラハムの間にいさかいが絶えなくなりました。そこでアブラハムは、「別れてくれないか。君が左に行けば私は右に行こう」と持ち掛けたところ、ロトは、その時主の園のように潤っていたソドムとゴモラのあるヨルダンの低地を選び取り、ソドムの近くに天幕を張りました。ところが、ソドムの人というのはよこしまで主に対しては非常な罪人でした。

 創世記18章。主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われました。三人の人が彼に向かって立っていたのです。アブラハムはひれ伏し、もてなしました。その人は、「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている」と告げ、その人たちはソドムを見下ろすほうへ上って行きました。アブラハムもいっしょについて行ったところ、主はこれからしようとすることを、アブラハムに隠しておくべきか、と案じられ、そこで彼に仰せられたのです。

 「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」。アブラハムはまだ立っており、主にとりなします。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽されるのですか。町の中に50人の正しい人がいるかもしれません。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか」。主は答えます。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう

 アブラハムは、「その五十人に五人不足しているかもしれません」と言いました。主は「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら」と答えてくださいました。四十人ならどうですか、三十人、二十人、そして十人見つかるかもしれません。アブラハムは精一杯食い下がりました。すると主は、「滅ぼすまい。その十人のために。」と言ってくだり、去って行かれました。

 二人の御使いは夕暮れにソドムに着きました。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって迎え、伏し拝み、「家にお泊りください」としきりに勧めたので、家の中に入りました。彼らが床につかないうちに、町のすべての人々が、ロトの家を取り囲み、「今夜おまえのところにやって来た男たちを連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ」と言います。これは、男色のことを言っているのです。ソドムの者は、ホモ・セックスの性的倒錯、罪に汚れた町であったのです。彼らの罪は熟しきっていました。神は、恐らくアブラハムとの約束を覚えてくださったのでしょう。憐れみによって、ロトとその妻、ふたりの娘の手をつかんで、町の外に置いてくださいました。そして「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう」と告げました。

 太陽が地上に上った頃、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ばされました。ロトの妻は、うしろを振り返ったので塩の柱になりました。

 これは、紀元前2067年に起こった史実で、聖書の創世記に記されています。罪の目盛りというのが、神の前にあります。それがいっぱいになるまで、神は静観を保たれます。しかし、民衆の声が上がり、その叫びが神に届くと、罪の目盛りもいよいよ限界に達します。その日が来たなら、主は容赦なくさばきの手を下されます。現代もまた、ソドムとゴモラ同様、罪の目盛りが満ちてきていることを思いませんか。

 近頃話題になっているLGBTIQの問題も、まさにソドムの男色を思わされます。性が歪み、殺人、人身売買、不品行、偶像礼拝、正しい教えに耳を傾けず、偽りを愛する時代になっています。ペテロの手紙第二210節には、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る」とも「彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」とも書かれています。今の世界がさばかれず、このまま続くと思ってはなりません。神は、静観されていましたが、もはやその期限も過ぎようとしているのです。

 ペテロの手紙第二3章にはこう書かれています。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(10節)。今度は、ソドムとゴモラ以上のさばきがなされるのです。そして、その日は近いと聖書は警告しているのです。

 しかし神は、ご自身の民、すなわち御子イエスを信じて神を恐れる正しい者を心に留め、携挙の恵みを与え、また、世の終わりの直前の終末の大リバイバルを約束しておられます。既にそれは始まっており、多くの者が救われ、あらゆるしるしと不思議を伴うわざをもって私たちを救いへと導き、おびただしい数の人々が救われています。日本においては、派手な動きは起こっていませんが、必ずこの先にそれを見るようになるでしょう。

 イエスさまが宣教を開始された時、イエスさまはこう語りました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

 同じように今、再び時は満ちています。キリストの再臨に向けて、いよいよ神の国は近くなりました。悔い改めるということは心の方向を変えるということです。自分中心の歩みから、神に従うよう、生き方を変えましょう。そして、熱心に悔い改めることを求め、また福音を信じ、宣べ伝えましょう。

 多くのリバイバルの前には、悔い改めの霊が豊かに注がれました。ペテロの手紙第一417節には「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです」と書かれています。まず、教会・神の家から悔い改めが起こり、リバイバルは始まります。それゆえ熱心に悔い改め、互いに赦し合い、愛し合いましょう。悔い改めは、リバイバルを起こす重要なスイッチであると私は思っています。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年3月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年3月12日水曜日

王明道と器の立て上げ

 私は18歳の時に救われ、即座に献身しました。その時口にした言葉は「遅すぎだ」というものでした。それを聞いた牧師は、半ば笑って「そんなことないよ」と言うのです。私としては、確かに短い18年間ではありますが、それなりに傷つくこともあり、もっと早く主を知っていれば人生また違ったものであったろうに、という思いがありました。それで、前述の言葉となった訳です。

 それから41年になります。あっという間にこれだけの年月がたちました。主の奉仕にも少しずつ携わらせていただき、さまざまな訓練もありました。顧みるに、その中で一番大きな大切な訓練は「待たされる」ということであったと思います。

 イエスさまは、公生涯に入るまで、30年の間両親に仕え従ってこられました。アブラハムが召命を受けたのは75歳でした。モーセは、イテロの下で40年間訓練を受けました。ヨセフは17歳から奴隷に売られ、長い年月を経てパロ(ファラオ)の前に立ちました。大きな働きを任される前には、例外なく待たされる、試される、という訓練を通るようです。神さまは私たちの人生を、私たちの思うようには見ていません。長い訓練を許し、ある日突然といった形で本格的な召しに立たせられるのです。ヨセフはその良い例でしょう。

 そして、待たされているその訓練は、後の本格的な働きの準備となっていることが多いです。神さまのなさることに無駄はありません。神さまとの個人的な交わりを深めるために、さまざまな訓練が私たちに許されるのです。

 ここで、中国の牧師、王明道(ワン・ミンタオ)のことをお話ししましょう。1950年代,三自愛国教会(中国政府が管理する共産党キリスト教会)に加わらない数千名の指導者が次々と逮捕され労働改造所に送られました。王明道は、三自愛国運動への参加をきっぱりと拒否したので、1955年に逮捕。収監されました。しかし、56年には自己批判書の声明を出し保釈されました。しかし、深く心の痛みを覚え、「私はユダだ、裏切り者だ」と、昼夜町を狂ったように徘徊する彼がいました。そして一月後、彼はその声明書を否定し、再逮捕されました。ここから合計23年の牢獄生活を送るようになります。こんなこと人間に耐え得るのでしょうか。人生のもっとも良い働き盛りを牢獄で過ごすなんて、私なら人生をのろいます。

 ところが、1974年に王明道から親戚に宛てた手紙が届きます。そこには、「私は空を飛ぶ雀のように自由です」。「私は素晴らしい人生の大学に入ったようなものです。私は実に多くのことを主から学びました」と書かれていました。一体何が起こっていたのでしょうか。王明道とともに収監されていたカトリックの医師は14年目の投獄で自ら命を絶ちました。いつになれば釈放されるのか分かっていれば、まだ忍べるかもしれません。しかし、無期限で牢獄で命を紡いでゆくのは、私ならとてもできないと思います。それを、「雀のように自由です」と語るなんて、主は彼に何をなされたのでしょう。

 今までの献身生活の中で、理不尽と思われるようなことが起こると、いつも語られる神のみことばがあります。それは、ペテロの手紙第一56節で「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」ということばです。私は、このことばからはいつも「忍耐」を学びました。神の目から見て、ちょうど良い時というのがあるのです。その時までは、誰もが神の力強い御手の下にへりくだることを学ぶのです。イエスさまも、モーセも、ヨセフもみんな待たされました。

 王明道もまたこの道を行ったのです。それは、長いトンネルのようなものです。入ると真っ暗で、どこを走っているかわからず、出口が見えません。しかし、進んで行くうちにやがて光射し風そよぐ明るい世界に到達します。そして、トンネルというものは、2地点を結ぶ最短距離なのです。無為に過ごしたかに見える23年間が、実は神の前には、立て上げるための最短距離であったのです。

 聖書にはこのように書かれています。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」(ペテロの手紙第一510節)。すべては私たちの立て上げのために許されるのです。忍耐を働かせ、またすべての事を感謝しましょう。今の試練は、将来の働きのために、神が深いご計画をもって一人一人に許しておられるものなのです。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年3月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年3月5日水曜日

赦し

 誰かは忘れましたが、「僕は人を非難するようなできた人間でないから、せめて人が何をしたとしても非難することはしないようにしている」と言った人がいます。奇特なお人だと思いました。

 イエスさまは、マタイの福音書でこう語られました。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり・柱に使う太い木)には気がつかないのですか」(713節)

 人の悪い所というものは、教えられないにしても、よく目につくものです。そして、それで嫌になったり、それに我慢できなかったり、非難したり、つまりはイエスさまがおっしゃった通り、兄弟を「さばく」のです。けれども、こと自分のこととなると、私たちはうって変わって甘口になるのです。無意識の内にうぬぼれたり、自分を自慢に思ったり、時には舞い上がってしまい人を見下します。人が馬鹿に見えることさえあります。私たちの内に、そういう性質があることを知っておくということは、とても大切なことだと思います。イエスさまの教えは、本当に的確です。

 謙遜、へりくだりという徳を私はクリスチャンになって初めて教わりました。イエスさまが直接教えられたほど、この学びは重要です。なぜなら、これは「赦し」に関わってくるものだからです。

 イエス・キリストは、私たちの罪を身代わりとしてご自分に負われ、十字架にかけられいのちをささげられました。神のさばきを身に受けて死に、3日目によみがえり、私たちを贖(あがな)ってくださったのです。この十字架のゆえに、神は人のすべての罪を「赦された」のです。

 そこから、新しい時代に入りました。「赦し」のある時代です。人類に希望が差し込みました。今まで誰が「赦す」なんてことができたでしょう。そんな権威をお持ちになっているのは神さまだけです。罪のある者は当然のごとく、人の罪を赦すなんてことはできません。罪のないお方である神だけが、罪を「赦す」ことがおできになるのです。

 ルカの福音書23章は、イエスさまが十字架につけられた時のご様子が書かれています。十字架につけられた時、イエスさまはこう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(34節)。ここで、イエスさまはイエスさまを殺す人間のその(原)罪に、赦しを宣言されたのです。それもまだ、私たちが罪を理解する前に。

 それは、私たちの罪が残ることのないように、という愛から出ています。日本二十六聖人の一人であるパウロ三木は、西坂の処刑場の十字架の上から最後のメッセージを語りました。そこで彼は「私は、(私を十字架にかけた)あなたがたを赦します」と宣言しました。

 使徒の働きに出てくるステパノは、人々に石打ちにされ今や死に行く時に、ひざまずいて、大声でこう叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」。そして、眠りについたのです。(760節)

 イエス・キリストがなされたことは、罪を赦すことでした。主にあって赦されない罪は何一つとしてありません。どんな罪でも赦されるように、主は私たちのために十字架のみ苦しみを極みまで全うされたのです。

 十字架によって贖いは完成しました。それで、今では主イエスの名によってあなたの罪を言い表しそれを捨てるなら、神はその罪がどんなものであっても赦してくださいます。というのは、ヨハネの手紙第一19節にはこのように書かれているからです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 十字架の前に罪を言い表しそれを手放すことで、私たちは完全な赦しを受けるのです。

 赦されたことのない人は、赦すことはできません。赦されることによって、初めて人は赦すことを学ぶのです。イエスのくびきは軽いというのは、罪ではなく赦しのもとに私たちが生きるからです。人の罪を赦せない者は自分の罪をもまた赦せません。ですから、一生罪の闇の中で生きることになります。その行く末は死です。ですから、主イエスは、またステパノもパウロ三木も、赦して死んでいったのです。それは私たちのためにです。ですから、私たちもまた赦された者として、互いに赦し合って生きていきましょう。これが、主がみ苦しみの中で与えてくださったご愛なのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年3月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2025年2月26日水曜日

 戦争と平和

 世界で最初の原子爆弾は、1945年8月6日に日本の広島に投下されました。それまでにはないような恐ろしい破壊力を持つ爆弾でした。14万人の人が、この一つの爆弾で命を失い、阿鼻(あび)叫喚ともいえる地獄絵図を見るように、あちこちで助けを求める声が上がり、痛みに耐えきれず川に飛び込んだ人もいました。建物も無残にも損壊し、美しい街は一瞬で廃墟になりました。

 それから、今まで80年の日々が過ぎました。86歳になる私の母は、第2次世界大戦を体験し、戦闘機から狙い撃ちをされた体験を覚えています。それを聞いた時、私は就学前の子どもでしたが、戦争を知っている人が亡くなったら、また戦争は起こるのではないかと、心に影が差し掛かったことを、今も覚えています。

 そして、それが当たったのか、今既に戦争は起こっており、世界はあたかも第3次世界大戦へ向かっての道を歩んでいるかのようです。そして、ご存じの通りこの戦争で最も懸念されるのは、核兵器の使用です。この後、全面戦争になったら、もしどこかが核兵器を使用したら、応酬に次ぐ応酬で瞬く間に地球は滅びてしまうでしょう。このような、人類滅亡とも言えるような出来事を、聖書は「主の日」と呼んでいます。

 ペテロの手紙第二にはこのように書かれています。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(3章10節)

 今の戦争で越えてはならない一線は核兵器使用にあります。核兵器を用いるならば、確かに互いの応酬の中で、あっという間にこの地は焼け溶けてしまうでしょう。しかも、その日が必ず来ることを聖書は何千年前の昔から予告しているのです。

 広島の広島平和都市記念碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という言葉が刻まれています。平和に対する強い決意がそこにはあると思います。過ちは繰り返しませぬ、その通りです。しかし、この戦争を体験した人はもうわずかになったのです。これからは、戦争を知らない私たちが、平和への真価を問われる時代に入ったのです。

 戦争と平和、これは表裏一体にある言葉です。戦争は罪から生まれます。奪い合い、搾取し合い、命が粗末に扱われます。憎しみを持ち、人を殺すことがその仕事です。権力によって、召集令状という1枚の紙切れによって無理やり戦地に送られ、命を奪われます。こんなこと、誰が望むでしょうか。このように、したくない戦争を作り上げてしまうのが、私たち人間の性質です。罪の性質です。

 それでは、平和はどのように来るのでしょうか。神は私に「赦し合う心」だと語ってくださいました。私たち個人にある罪に向かい合ってください。生まれながらの私たちは、例外なくありのままの罪人であり、この罪が、巡り巡って戦争を作り上げるのです。それゆえ、人を愛すること、赦し合うことに心を用いましょう。愛は力です。愛はくじけません。愛は不可能を可能にするのです。そしてその原点は十字架にかけられた主イエスのうちにあるのです。

 人のために、救いのために、死なれたイエスこそ、まことの救い主また永遠のいのちです。私も、以前は赦せない者でした。憎しみを持った罪人でした。しかも、それを手放すつもりもありませんでした。しかし、イエスさまが、ご自身を知らせてくださったゆえに、愛を知ったのです。互いに赦し合うことが、平和への道であるのです。

 ある人は、赦してしまうと「負け」だと思っています。それで頑なに赦そうとしません。でも、世には「負けて勝つ」という言葉があるではありませんか。赦した人が赦されるのです。赦さなければ、自分も相手も依然罪の縄目の中にいるのです。

 平和は、私たちの心から湧き起こってきます。赦せない人を赦しましょう。それが戦争にも打ち勝つ力となると私は思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年2月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年2月19日水曜日

ほめ殺し

 独身時代、父とよく「ちゃんこ鍋」を食べに出かけました。かつてお相撲さんであったご主人と奥さまが切り盛りしている店です。驚いたのが、その接客ぶりです。「まあまあ社長、もう一杯」「先生。先生。どうぞどうぞ」と勧め、実に見事に社長や先生と心をくすぐる言葉遣いをしています。さすが両国。よいしょする言葉がはんぱじゃないなあと、妙に感心した覚えがあります。

 その時ではなかったのですが、父に散々聞かされたのは「口のうまい者には気をつけろ」という言葉でした。「今まで自分が見てきた中で、口の上手いやつほど当てにならない。耳触りの良いことを言う者には腹にたくらみがあると思った方がいい。」今では私も、私なりに、このアドバイスには一理あると思っています。

 私は、何かを考える時、イエスさまならどうなされるだろうか、というふうに考えるようにしています。イエスさまは、人として世に来られましたが、神であられるのです。にもかかわらず、非常に謙遜であられました。ご存じの通り、主はご自分の肉において、十字架でいのちを捨て、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与え、救いをもたらしてくださったのです。イエスさまの故に、今はもう私たちは死さえ恐れる必要がなくなりました。

 これほど大きな事をしてくださった方ですが、イエスさまは一貫して謙遜であり、絶えず神に感謝をささげ、常に栄光を神に帰しておられました。人々からどんなに痛められ辱められても、父なる神に信頼し、呪いの言葉の一つさえも口にせず耐え忍ばれました。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(ヨハネの福音書18章11節)。これが十字架の患難を前にしたイエスさまのおことばでした。

 民衆はこのイエスさまに大いに期待しました。イエスさまは、病人や悪霊につかれた者をいやし解放し、また、5つのパンと2匹の魚で7千人の群衆を満腹させました。人気絶頂であったのです。そして、イエスさまは、そのすべての栄光を神に帰されました。常に父なる神と共に歩まれたのです。

 しかし、そのイエスさまがみ父から離れ、罪人の一人として数えられる時が来ました。何の罪もないイエスさまですが、この時は、御身に人類のすべての罪を負われ、十字架上で神のさばきを受け、死なれました。一時(いっとき)とはいえ、み父から離れ罪人となられた、これがどれほどのみ苦しみか、私には想像さえつきません。しかし、これは世界の歴史の中で最も大切なことです。神の愛は、この十字架の死(贖(あがな)い)と3日目の復活によって、人を完全に救うものとなりました。最大級のご栄光を神に帰しましょう。

 しかし世では、神さまが働かれるように、サタンもまた働くことを忘れてはなりません。例えるなら、先程のちゃんこやの女将さんのように、またはそれ以上に、サタンは、耳触りの良い言葉であなたの心をくすぐります。「あなたのような神の器は見たことがありません。あなたの説教は何と素晴らしいのでしょう」とか、「あなたこそ神の人です。こんな所にいないでもっと人前に出るべきでしょう」などと言ってほめ殺しにし、さらに、「ひれ伏して私を拝むならこの世のすべてをあなたにあげます」と取引までも持ち出し、「さあ、あなたの記念碑を建ててあなたのしたことを後世に伝えましょう」などと誘惑の限りを尽くします。

 サタンは狡猾です。こうしてサタンは自分の手を汚さずに、人が神の栄光を盗み、また神に逆らうように仕向け、神によってさばかれることを狙いました。甘い言葉のたった一つでも、もしこのサタンの称賛に心を許してしまうなら、あなたは1番大切なものを失ってしまいます。その時には、後からいくら悔やんでも、もはや心を変えてもらう余地はないでしょう。

 神を恐れましょう。「ほめ殺し」はサタンが用いる常とう手段です。私たちが自分を誇るようサタンは巧みに誘惑してきます。そして、ついには高慢の若枝が花を咲かせるのです。これから先、神の働きは私たちが思う以上に大きなものになります。実りは多いが戦いもまた厳しくなります。自分に死ぬこと、へりくだることを覚えて、まずは祈りましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年2月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年2月12日水曜日

 道子に出会えてよかった

 一昨年、私の恩師が亡くなりました。私が中学1年の頃の担任教諭で、学校が開校されたばかりの頃です。教師という生き方を深く模索している情熱型の先生でした。悪いことをすると、顔がキッと真顔になり、持っている国語の教科書で頭をたたかれました。ある時、学校にあめを持ち込んで、みんなで食べていたところ、「主犯がいるはずだ、立て!」と呼ばれて、立った私の頭の上にも国語の教科書はズシンと落ちてきました。今思えば、これは愛のむちだったと思います。

 教育ということを真剣に考えておられた先生で、年を取った先生の持つ教育論に感動しつつ、クラスをまとめるということや、思春期の生徒への対応など、お忙しい毎日であったことと思います。ありのまま、というスタンスで、結構皮肉をおっしゃいます。私もよく厳しいお言葉を頂きました。でも叱られているのにもかかわらず、なぜか嫌いになれないのです。本心は温かい方であると感じていたのか、先生の言い分が正しいと認めていたのか、今となれば、悪いところを指摘していただくということが、どんなにありがたいことであったかと、感謝する毎日です。

 当時、この先生は新婚ほやほやでした。広島から来た若い奥さまに甘えるように「お茶!」と催促した表情など、思い起こせば宝石を大事にするように奥さまを大切にしておられるようでした。好き、愛している、ほれた、三つそろってよく使われる言葉でしょうが、先生の場合「ほれた」という語が一番的確であったでしょう。

 残念ながら、お子さまには恵まれませんでした。しかし、教え子が山ほどいます。みな先生が大好きで、先生もまた教え子を大切にしてくださいました。私も先生とその奥さまと楽しいおしゃべりの時間を過ごしたことで、自然と結婚の祝福というものに目が向き始めました。

 聖書のエペソ人の手紙5章には、結婚に関してこのように書かれています。「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる(第二版では“一心同体となる”)」(31節)これが「結婚」です。さらに勧めとして、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)、「自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」(28節)と、こう語られています。

 興味深いことに、男には「妻を愛せよ」と言いながら、女には「夫に従え」と別のことを言っています。これは、愛というものはより難しいものであるゆえ、男に求められるものであって、女には(夫に)従うことが(夫への)愛となる、そう学びました。夫婦円満の秘訣(ひけつ)は、妻は夫に従うこと、夫は自分の妻を愛すること、そして、ふたりは一心同体となる、これに尽きるように思います。

 結婚を大切にしましょう。先生は、がんでした。しかし最後に残した言葉は「道子(奥さんの名前)に出会えてよかった」というものでした。世界中探しても、その道子さんはたった1人しかいません。道子さんという人が存在してくれたことが自分にとってまずうれしい。もうじき自分の人生は終わるが、顧みて「人生で一番うれしかったことは道子がいたこと、道子に出会えたことだ」。そう語っているのです。最高の言葉ではないでしょうか。死がふたりを分かつまで、その言葉通りお二人は愛を育んでこられたのです。

 結婚は、神によってなされる契約の儀式です。2人を引き合わせ一つにするのは神です。結婚は神のものです。あなたがいてくれるだけで私は十分幸せだ。そんな愛し合える人を、神は必ずあなたにも引き寄せてくださいます。それには時がありますし、導きがあります。待たされることも多いです。しかし最後には、お前に出会えてよかった、と言ってもらえるような人と人生を共にしたいと思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年2月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年2月5日水曜日

 後の雨リバイバル

 毎年2月5日になると、長崎の西坂で日本二十六聖人記念集会を行います。西坂は日本で最初の殉教の地で、今なお彼らの信仰をしのんで多くの人が集まります。そこには殉教者のレリーフがありますが、その中央に聖書の一節が刻まれているのをご存じでしょうか。「人若し我に従はんと欲せば己を捨て十字架をとりて我に従うべし」【だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。】(マルコの福音書8章34節)という一節です。日本二十六聖人の人生はこの一文を体現した人生でした。老人から子どもまで、外国人から日本人まで、さまざまな人がこの殉教に導かれました。日本にこのような信仰があったことを私は誇りに思います。

 日本二十六聖人もまた、生きることを自分のものとするのではなく、地上での生涯を神にささげ、世においては寄留者として生きることを聖書通りに実践しました。彼らは殉教しましたが、その生き方は私たちに「天」を示しました。「極楽」や「あの世」「地獄」しか知らなかった私たちに「天の御国」を知らせたのです。これは決して小さなことではありません。「死」を恐れることも無く、賛美の満ちる中、喜んで天に帰っていった26名。こんな人生は、日本人はそれまで見たことがありませんでした。ですから何が彼らをそうさせたのか、それを知ろうと多くの人が福音に耳を傾け始めました。そして日本の霊の壁は徐々に砕かれ、大きなリバイバルが起こってきたのです。

 彼らの信仰からは、神に対する絶対的な信頼が伝わってきます。たとえ、死ぬようなことがあっても恐れず、神の御声に聞き従い、神の最善を信じ、神に信頼し期待しているのです。そして事実、主イエスは十字架上で死なれましたが、約束通りに3日目に復活され、「死」は「いのち」にのまれてしまいました。今や誰であっても、イエスを主(救い主)と信じ口で告白するなら、罪の赦しと永遠のいのちが与えられます。

 使徒4章12節に「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と書かれています。その通り、「宗教」は星の数ほどあっても、「救い」はイエス・キリスト以外にはないのです。

 殉教者をはじめ、主を信じる者は、人生における勝利者です。信仰の人生は一見、何かを失ったかのように見えますが、決して何も失ってはいません。いのちさえもそうです。日本二十六聖人は、確かに世のいのちを失いました。しかし、神が下さる永遠のいのちを受けました。底が見えないほどの悲しみがあっても、そこに神は深い慰めを下さいます。神は私たちを愛しておられ、私たちに細やかな配慮をしてくださっているのです。

 何もないようでもすべてを持っており、また、神は苦難に耐え抜く力を与えてくださいます。時には奇跡を見、神による逆転勝利が起こります。そして主イエスの苦しみが、私たちに平安をもたらしたように、今度は私たちを通して、神は多くの人々に救いを届けようとしておられます。

 この聖なる招きに応答しましょう。いよいよ後の雨リバイバルが始まってきています。

MIKOE NEWSから転載」 2025年2月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月29日水曜日

私の願うようにではなく

 イスラエルのオリーブ山にゲツセマネという園があります。イエスと弟子たちはよくそこで会合をしました。ルカの福音書22章に書かれているところでは、その日イエスはゲッセマネのいつもの場所に着いた時、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と告げ、ご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、祈り始められました。

 それは今までにないような激しい祈りで、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけました。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちました。

 ここまで激しく、一体何をイエスさまは祈られたのでしょうか。それは、イエスさまに与えられた使命である十字架の贖(あがな)いを全うすることであったと思います。既にこの時、イエスさまは、ご自分が十字架にかけられ、すべての人の罪を負い、殺される時が来たことを知っておられました。そして祈ったのです。「父よ。みこころならば、この杯(十字架での死)をわたしから取りのけてください」

 これは偽らざる本心でしょう。十字架での贖いの死を遂げられるそのみ苦しみは、私たちには到底思いもつかないようなものだと思います。にもかかわらず、イエスさまが素晴らしいのはその後に祈った祈りです。

 イエスさまは「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカの福音書22章42節)と祈られたのです。イエスさまはそれがどんな苦しみであるかをよく知っておられました。しかしイエスさまは、神のみこころを行うことが最善であることを、誰よりもご存じでした。それゆえ、自分の願いではなく、神のみこころがなることをより切に神に求められたのです。

 多くの宗教は、自分の願いを果たしてくれることを期待して信心します。しかし、聖書の教え(キリスト教)は全く逆です。自分の利益のために神があるのではなく、神に仕えることによって「天の祝福」にあずかるのです。これが私たちへの報いであり、ここがキリスト教と他のご利益宗教との大きな違いです。

 新生したクリスチャンがイエスのしもべになると、教会ではまず「自分に死ぬ」ということを学ぶようになります。これは、「わたしの願いではなく、みこころの…」という一節に通じるものです。自分が生きていては、自分の思いのままに動くので神さまのお役には立てません。でも、しばらくしてそこを越えたなら、いよいよ今度は「自分の十字架を負って主に従う」という次の歩みが始まります。十字架を負う人とは、自分の思いではなく神のみ思いを第一に行う人です。

 ガラテヤ人への手紙6章5節に「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と書かれています。主は一人一人に応じた重荷(十字架)を用意しておられます。それを受け、神に仕えるなら、報いとして神は豊かな実を結ばせてくださいます。

 人生の中で岐路に立つ時は、神のみこころを選ぶことができるようにと祈りましょう。主はあなたを助け、必ず最善の道を、神のみこころを選ばせてくださいます。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年1月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月22日水曜日

 親の人生、子の人生

 イスラエルのお母さん(ジューイッシュマザー)は教育熱心なことで有名です。子どもの性質を良く知り、その子の能力が発揮される所へと導きます。また、「孟母三遷」と言って、孟子の母は、家庭環境、友人関係、教育機関などに心を用い、納得する所が見つかるまで、3度も引っ越しをしたと言います。子どものために良い環境を用意する、これがお母さんの役割だと言われています。

 ところが、これには陥りやすいわながあります。お母さんが出過ぎると悲劇が起こるのです。ある時テレビでチアリーダーを目指す女の子とそのお母さんのドキュメンタリーが放映されていました。チアリーダー、チアガールは日本ではそうそう見かけませんが、アメリカでは、女の子の憧れの的です。

 その子も、チアリーダーになりたいという夢を持っていました。その子のお母さんも何とかして娘をチアリーダーにしたいと苦心していました。食事制限から、練習、またチアリーダーになるための学校内での募集をチェックし、票を入れてくれるよう、いろいろなプレゼントを配りました。

 ある時、ようやくチアリーダーに欠員が出ました。そこで、入ろうとするのですが、ライバルのお母さんがさりげなくコーチに献金額を伝えたところ、彼女ではなく、ライバルだった子に、その役が回っていきました。「結局は金だ」、と強く悟ったお母さんは、お金持ちのおじいさんと再婚します。でも、そこでしたことは相変わらず娘をチアリーダーにするそのことばかりで、夫に愛を示すこともなく、お金を狙った政略結婚でしかありませんでした。

 以心伝心で、夫も娘もそのことが分かります。母に傷ついて、ついに娘が「もう私はチアリーダーにならない」そう言って家を出ました。どんなことがあっても、チアリーダーになりたい一心で、彼女は忍耐して頑張ってきたのです。しかし、ついにそれを投げ捨ててしまいました。

 お母さんは自分がしたことが分からないでしょう。チアリーダーのビジョンは娘のものですが、それはお母さん自身のビジョンでもあったのです。

 私の友人ですが、幼稚園で働きたいと思っていました。しかし、母親は、それじゃあ食べていけないから看護師になりなさいと強く勧め、手続きをしました。その子は、「自分の人生なのに、なぜ人生を自分で決めちゃぁいけないの」と涙ながらに訴えました。

 母親は、「私の判断が正しいの。私の言う通りやってゆくなら必ず成功者になる。幸せになるはずだ。だから私の言った通りにしなさい。」このようにして、子どもから選択の機会を取り上げてしまうことがあるのです。良かれと思っての親心でしょう。しかし、人生は自分の道を自分の足で歩いて行く道のりです。時には忍耐が必要ですが、子どもが自分で答えを出すまで待っていてあげる、これもまた愛なのではないでしょうか。事実、神さまはそうしてくださったのではありませんか。罪人(つみびと)である私たちは、良かれと思って子どもの人生を自分が決めてしまう(奪ってしまう)ということをしがちなのです。

 親という者は、子どもの人生にいろんな期待や望みを持ちやすい者です。そして、それが高じて、過干渉になることがよくあります。これには気をつけましょう。子どもの人生は、あくまでも子どものものなのです。

 聖書にはこう書かれています。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16章3節)

 子どもの人生を神に委ね切るなら、神さまがその子のために用意しておられる最善の人生に必ず導いてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2025年1月22日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月15日水曜日

 伝言ゲーム

 伝言ゲームとはグループ内で人から人へ言葉(メッセージ)を順に伝え、正確に伝わらない様子を楽しむ遊びです。初めの言葉と終わりの言葉は、最後には大きく違ってしまうので笑いが絶えません。

 ことばは、神の創造の中でも特別な役割を果たしています。しかし言葉は、ともすれば違う言葉にすり替わりやすい、ぶれやすいという特徴もあります。そして、往々にしてそこがサタンの狙い目なのです。創世記で、神はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と語られました。(2章)

 アダムは、それを大切なこととして女(妻エバ)に口頭で伝えたことでしょう。しかし、そこに蛇がやって来ました。狡猾(こうかつ)な蛇はアダムを避け、まず女に言います。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」(3章)

 早くも言葉が変わっています。神は、「食べてよい」と言いましたが、蛇は「食べてはならない」と、逆を言いました。さらに神が語られたことに疑問を持たせ、「ほんとうに言われたのですか」と問うています。

 女は蛇に言いました。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

 ここでも、早くも「木」が「木の実」になり、「善悪の知識の木」からは取って食べてはならない、と神が語ったにもかかわらず、「園の中央にある木の実」と言い間違え、食べてはならない、触れてもいけない、と神のことばに付け加え、さらに「死ぬ」と告げられたにもかかわらず、それを「死ぬといけないからだ」と都合良く言い換えています。

 その結果は、皆さんご存じの通り、ふたりして禁断の実を食べ、アダムとエバはエデンの園を追われ、人類に死が入りました。

 神のことばは、その通り成就するのです。一言一句、必ず語られた通り成就します。そして、サタンは、神のことばを人から奪い、惑わすことをしています。神のことばはいのち、また創造ですが、サタンがもたらすものは「死」なのです。神のことばを奪われないようしっかりと握り、正確にことばの内に留まりましょう。そうすれば、神のことばの成就と具体的な解決を見るのです。

 初めに聞いたことばを最後まで持ち続けましょう。確かに神のことばに留まり続けるのには戦いがあります。しかし、神を恐れること、受けたことばを正確に捉え、神のことばに留まること、常にここに立ち戻りましょう。蛇はうそつきです。語る言葉はすべて偽りです。しかし、古い蛇は私たちの罪と私たちの心を捉える言葉をよく知っています。ですから巧みな言葉をもってだますのです。

 それゆえ罪から離れ、へりくだって神さまに助けていただきましょう。決して自分でできるなどと思わず、神に頼りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2025年1月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月9日木曜日

 ありがとう

 私の父はB型肝炎で55歳の若さで天に帰りました。長女として父に寄り添い、その最晩年を家族と共に過ごせたこと、また闘病における折々の神さまのご配慮を頂いて喜びをもって父を天に送ることは、今思い返しても本当に神さまに感謝でした。

 父の闘病生活の中には多くの祝福がありましたが、一番大きな祝福は父が受洗にあずかったことです。はっきりとした意識をもって信仰を示し、イエス・キリストのしもべとなりました。その病は残念ながら死に至る病で、どんなに祈っても病気は進行する一方でした。いやされることを本人も家族も必死に願いました。けれども、こればかりは神さまの領域で、私たちにはあずかり知れないものなのです。

 ヨハネの福音書11章4節から「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」ということばを頂き、栄光はうれしいが、「死で終わる」という一節が気になりました。やはり父は死ななければならないのでしょうか、と何度も主にお尋ねしました。

 ところがある日、父は密かに私に言いました。その日病院で自死があり、父のベッドの横を風圧とともに人の影が過ぎていったと。ここは生きるか死ぬかの戦いの場所。しかし、お父さんは最後まで自分のよわいを全うする。そればかりか、ここから天に帰ってもいいとさえ思っているんだ、と。

 このあたりから父は変わっていきました。笑顔を絶やさないようになりました。いつも喜びをたたえていてにこにこしています。転移の激痛は、いっそ殺してくれというほどの痛みですが、それにも一人でじっと耐えていました。こんなあんばいですから医師や看護師さんにも愛され、ちょっとしたことにも「ありがとう」というのが父の口癖になっていきました。

 私も入院の経験があります。入院するのはそれなりに病んでいるのですから、自分にできない所は人に世話にならざるを得ません。そうした時は、口にこそ出しませんが「申し訳ない。ありがとう。」という思いで、いっぱいになるのです。ありがとう、ありがとう。と心の中で何度お礼を言ったでしょう。

 4月19日。桜が満開になった頃、父の召天が近づきました。召される20分ほど前、父は渾身(こんしん)の力を振り絞って、私たちが差し出した色紙に何事かを記しました。乱れた文字で私たちには読めませんでした。ところが、何年か後に父の病友が、「きっと、ご主人は有難うと書いているはずだ。だからもう一度見てほしい」と連絡が来て、私たちはもう一度、色紙を見ました。するとその通り大きな字で「有難う」と書かれていました。約束通り主は、この病を死で終わるだけのものではなく、神の栄光の現れとしてくださいました。

 父の生涯の最後の言葉は「ありがとう」でした。幸せな人生であったと思います。神に感謝します。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年1月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月2日木曜日

美しいから愛されるのではない

 大学時代の友人であるE子はぽっちゃりとした、愛らしい女子です。しかし、いただけないのは会うと必ず「私はブスだから。」と口にするのです。

 彼女が美人かブスかを判定するものを私は持っていません。友人として、E子が特別に容姿が衰えているとか、あるいは絶世の美女であるとか、そういった思いもありません。八分咲きの桜のように、良い感じに花が開いているそんな桜の一枝のようでした。

 ところが、彼女の意志は、私が思うよりはるかにはるかに強かったのです。ある日、学内で彼女に会いました。なんか変だな、どこか違うな、という意識を探ると、彼女の方から「私、整形したの」と言ってきました。まぶたを二つ。きれいな二重が印象に残ります。

 何でも親御さんに、「大学卒業のお祝いに自動車免許の取得か美容整形かどちらでも一つ好きなものを選びなさい」と言われてE子は、即座に美容整形を選択したのです。とても喜んでいました。これが、自分への自信につながるものなら、決して高いものではないと私は思います。

 人は、美しさに何を見ているのでしょう。サムエル記第一16章に興味深い記述があります。預言者サムエルはサウルに代わる王を探すため、ベツレヘムのエッサイの子のもとを訪ねました。長兄のエリアブを見てサムエルは「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし主はこう言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(6、7節)

 エッサイは、7人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルは「主はこの者たちを選んではおられない」と言い、「子どもたちはこれで全部ですか」と尋ねたところ、「まだ末の息子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」と答え、サムエルは直ちに「人をやって、その子を連れて来なさい。」と言いました。

 子どもの数にさえ入れ忘れられたその子の名は、ダビデです。血色の良い顔で、目が美しく、姿も立派でした。主が「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と仰せられ、サムエルが油を注ぐと、主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下りました。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る」。これが神の選びの基準です。神の前にあって隠しおおせる物など何もなく、神は人の心の奥底を探られます。皆さんもどこかで、イエス・キリストがあなたを愛しておられるということを聞いたことはありませんか。カルバリの丘で十字架にかけられ槍(やり)を受けて死なれた主イエスは、私たちの罪の身代わりに死なれたのです。3日目には復活を遂げ、ご自身を信じる者に「永遠のいのち」を与え、救いを完成されました。

 箴言31章に「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。」(30節)と書かれています。麗しさも、美しさも、やがては枯れるはかない存在です。しかし、神は1日で枯れてしまうこの一輪の花を愛するがゆえ、それを造られるのです。

 美しいから愛されるのではありません。逆です。神に愛されているから、誰も見ていない一輪の百合にもこれほどまで美しく、神のみ前に完璧に装ってくださるのです。

「きょうはあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、良くしてくださらない訳がありましょうか。」(マタイの福音書6章30節)

 MIKOE NEWSから転載」 2025年1月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/