もし、あなたが本当に困っているのなら
人生にはいろいろな事が起こります。例えば、突然見舞われた不治の病や思いもよらぬ事故。陰湿ないじめや、お金がないこと。夫婦間のすれ違いや、親しい人の死。そして戦争やききん等々。本当に人生には、特に最近は、予期せぬことがいろいろと起こっています。
誰にも相談できないこと。解決の糸口が見いだせないこと。あらゆる面で行き詰まり、もし、あなたが本当に困っているのなら、その時にはイエス・キリストのもとに来てください。イエスさまの前にあなたの悩みを、また苦しみを打ち明けてください。その心を、イエスさまに知っていただいてください。死を考えるほど追い詰められているのなら、なおさらのことです。
イエス・キリストまた神は、あなたを拒まれるような方ではありません。信者であろうがなかろうが、神はすべての人にとって神です。あなたを造られたあなたの父です。あなたを顧みてくださらないわけがありません。また、十字架の上で自分のいのちさえ投げ出して、私たちの罪を贖(あがな)ってくださったキリストが、どうしてあなたを助けてくださらないことがあるでしょう。必ず、脱出の道はあるのです。絶望する中にも、神の解決はあるのです。神は、あなたの救いとなられます。そのことをぜひ知っていただきたいと思います。
そして、困難にある時、神はそれを乗り越えられるように、私たちにまず慰めを与えてくださいます。聖書のコリント人への手紙第二1章には、このように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(中略)それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(略)その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(3節~6節まで抜粋)
神は苦難を許されると同時に、慰めも与えてくださいます。これが人生の素晴らしい所です。世には「さばきの神」というイメージを持っておられる方は多くても、「慰めの神」を知る人は少ないと思います。しかし、先ほど挙げたコリント人への手紙第二1章では、「慰めの神」が描写されています。神は、苦しむ私たちを、ねんごろに慰めてくださるのです。苦難にある時は、神はご自身の「隠れ場」に私たちを連れて行ってくださり、ひそかに休ませてくださいます。
顧みれば、イエスさまは、弱り果てた私を立たせてくださるお方でした。渇いた口に水を注いでくださるお方でした。マタイの福音書では、「いたんだ葦を折ることも無く、くすぶる燈心を消すことのない」お方だというふうに書かれています(12章20節参照)。真実の愛で私たちを愛してくださっています。
そして、マタイの福音書では、イエスさまご自身こう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(11章28~30節)
これは、すべての人に向かって語られていることばです。そして、救いのことばでもあります。イエス・キリストを、自分の救い主と信じることが、真に人を安息へと導くのです。イエスのくびきは軽いのです。それゆえ、重荷をおろしてイエスさまの十字架の救いを信じましょう。問題もまた神であるイエスさまによる解決があります。
イエスさまが、十字架によってなしてくださったことは、あなたの罪を赦すことです。あなたのうちの、自分を責める思い(それは罪から来ますが)、行き場のない問題、そのすべてを、イエスさまはあなたの代わりに担ってくださいました。ですから、今、イエスさまを信じ、イエスさまのもとに帰りましょう。
神の愛は、イエスさまによって体現されているのです。そして、それは私たちから出るものではなく、神の恵みによります。キリスト・イエスの恵みによって私たちは、どのような状況の中にあっても、希望となる力を頂くことができるのです。
MIKOE NEWSから転載」 2025年4月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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