2025年4月24日木曜日

自分に酔いしれる

 高慢ということは、自分に酔いしれた状態であると思います。ルカの福音書18章の9節から12節にかけて、神は興味深いたとえを話されました。

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとり人はパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 パリサイ人は当時のエリートで、取税人は税を取り立て、しかも往々にして不正をして同胞から決められた以上に取りたてて私腹を肥やしていました。それで、罪人として皆に嫌われていました。一方、パリサイ人は皆に尊敬されていて、人々の上に立って先生と呼ばれていました。

 それゆえパリサイ人は、宮に行き、立ってこのような祈りをしました。「神よ。私はほかの人々をようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。

 これは、パリサイの誇りでした。こんなにも主に仕えている私というものに、並々ならぬ自負があったと思います。確かに週に2度断食をしたり、律法を落ち度なく行うことはなかなかできないことです。それを守り行っていることは、当然、自分を褒める思いがあったでしょう。地位もあり、人の上に立ったパリサイ人は、知らないうちに自分の行いに酔いしれてしまったのです。もちろん、なすべきことは忠実に行ったでしょうから、非難の対象とは言えないでしょう。しかし、自分を高くするあまり、人を裁く高ぶりが生じたのではないでしょうか。

 それは「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」という一文に表れていると思います。

 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。

 イエスさまは、言われました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 地位や働きによって、知らぬ間に自分に酔いしれてしまうということは、どの世界においてもよくあることです。一国の首相から企業のトップに至るまで、不祥事によって辞任するケースを私もたくさん見てきました。高ぶりは滅びの前ぶれなのです。後になって、後悔してももう元に戻ることはできません。いかに多くの人が高ぶりの故に人生を棒に振ったことでしょう。

 神もまた高ぶる者を退け、心のへりくだった者をいつくしまれます。心が低いということは、神の前の美徳です。イエスさまは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と語られました。(マタイの福音書53節)

 それゆえ、常にキリスト・イエスに救われたあの日のことを思い出しましょう。その日から神の前には何も変わっていないのです。教会が大きくなると教会の中でも、社会同様に地位や立場が与えられてくるでしょう。しかし、イエスさまに出会ったあの信仰の原点を忘れてしまうなら必ず、ずれてしまいます。最悪の場合は退けられてしまいます。

 私たちは、サタンの小さなほめ殺しの言葉によって、いとも簡単に自分に酔いしれてしまいます。しかも、なすべきことは行っているのですから、まさか自分が誇っているとは思いもしないのです。

 パリサイ人は自分が神に仕えていることを誇りとし、自分に酔いしれ、自分を義人とし、取税人を罪人であるとさばいてしまいました。これはもう、神の前では高慢という罪です。

 バビロンのネブカデネザル王は、神が彼を立て祝福していたのにもかかわらず、「この大バビロンは、私の権力によって(中略)私が立てたものではないか。」と言った瞬間、ただちに彼は宮殿から追い出され、野の獣とともに住むようになり、七つの時が過ぎるまで、捨て置かれました(ダニエル書42932節参照)。彼もまた、高ぶりの一線を越えてしまったのです。

 神のあわれみを求めた取税人が、神の前には義とされました。それゆえ私たちは意識して、日々へりくだりを求め、低い心を求めていきましょう。

 「神は高ぶるものに敵対し、へりくだるものに恵みを与えられる」(ペテロの手紙第一55節) 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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