2025年3月5日水曜日

赦し

 誰かは忘れましたが、「僕は人を非難するようなできた人間でないから、せめて人が何をしたとしても非難することはしないようにしている」と言った人がいます。奇特なお人だと思いました。

 イエスさまは、マタイの福音書でこう語られました。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり・柱に使う太い木)には気がつかないのですか」(713節)

 人の悪い所というものは、教えられないにしても、よく目につくものです。そして、それで嫌になったり、それに我慢できなかったり、非難したり、つまりはイエスさまがおっしゃった通り、兄弟を「さばく」のです。けれども、こと自分のこととなると、私たちはうって変わって甘口になるのです。無意識の内にうぬぼれたり、自分を自慢に思ったり、時には舞い上がってしまい人を見下します。人が馬鹿に見えることさえあります。私たちの内に、そういう性質があることを知っておくということは、とても大切なことだと思います。イエスさまの教えは、本当に的確です。

 謙遜、へりくだりという徳を私はクリスチャンになって初めて教わりました。イエスさまが直接教えられたほど、この学びは重要です。なぜなら、これは「赦し」に関わってくるものだからです。

 イエス・キリストは、私たちの罪を身代わりとしてご自分に負われ、十字架にかけられいのちをささげられました。神のさばきを身に受けて死に、3日目によみがえり、私たちを贖(あがな)ってくださったのです。この十字架のゆえに、神は人のすべての罪を「赦された」のです。

 そこから、新しい時代に入りました。「赦し」のある時代です。人類に希望が差し込みました。今まで誰が「赦す」なんてことができたでしょう。そんな権威をお持ちになっているのは神さまだけです。罪のある者は当然のごとく、人の罪を赦すなんてことはできません。罪のないお方である神だけが、罪を「赦す」ことがおできになるのです。

 ルカの福音書23章は、イエスさまが十字架につけられた時のご様子が書かれています。十字架につけられた時、イエスさまはこう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(34節)。ここで、イエスさまはイエスさまを殺す人間のその(原)罪に、赦しを宣言されたのです。それもまだ、私たちが罪を理解する前に。

 それは、私たちの罪が残ることのないように、という愛から出ています。日本二十六聖人の一人であるパウロ三木は、西坂の処刑場の十字架の上から最後のメッセージを語りました。そこで彼は「私は、(私を十字架にかけた)あなたがたを赦します」と宣言しました。

 使徒の働きに出てくるステパノは、人々に石打ちにされ今や死に行く時に、ひざまずいて、大声でこう叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」。そして、眠りについたのです。(760節)

 イエス・キリストがなされたことは、罪を赦すことでした。主にあって赦されない罪は何一つとしてありません。どんな罪でも赦されるように、主は私たちのために十字架のみ苦しみを極みまで全うされたのです。

 十字架によって贖いは完成しました。それで、今では主イエスの名によってあなたの罪を言い表しそれを捨てるなら、神はその罪がどんなものであっても赦してくださいます。というのは、ヨハネの手紙第一19節にはこのように書かれているからです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 十字架の前に罪を言い表しそれを手放すことで、私たちは完全な赦しを受けるのです。

 赦されたことのない人は、赦すことはできません。赦されることによって、初めて人は赦すことを学ぶのです。イエスのくびきは軽いというのは、罪ではなく赦しのもとに私たちが生きるからです。人の罪を赦せない者は自分の罪をもまた赦せません。ですから、一生罪の闇の中で生きることになります。その行く末は死です。ですから、主イエスは、またステパノもパウロ三木も、赦して死んでいったのです。それは私たちのためにです。ですから、私たちもまた赦された者として、互いに赦し合って生きていきましょう。これが、主がみ苦しみの中で与えてくださったご愛なのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年3月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


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