2025年4月16日水曜日

ヨブと真珠

 ヨブ記のヨブは、いわれなき試練に置かれたことで有名です。多くの困難にある人が、ヨブのことを思い起こします。いわれなき試練というのを神は許されるのでしょうか。許されます。

 TLEA主催の白馬スネルゴイキャンプで、今や、100万人のフォロワーを持つインフルエンサーのあきand光一さんが、お話をしてくださいました。カイロプラクティックのクリニックを経営していた光一さんですが、ある時、家も財産もすべて失ってしまった、という事態になりました。まさに、ヨブ記のヨブに起こったことと同じではありませんか。

 その苦しみの年月は、7年にも及んだといいます。お二人は、ロサンゼルスを出てハワイに行き、そこで苦しい時を過ごしました。その時の事を語ると、光一さんは「困難にある人が、今いるかもしれませんが、必ずそこを抜けますから」と涙ぐんで私たちを励ましてくださいました。

 その時、私も自分に許された困難な日々のことを思い起こしました。18歳の頃、私はイエス・キリストを信じ、翌年のクリスマスの受洗を楽しみにしていました。しかし、父からの許しが得られず、強行するつもりでいましたが、迷っていました。

 その時、重い病気になったのです。神経の病気で、ベッドに寝たまま動くことさえできませんでした。こんなにつらいなら自殺したいと思っても、窓のところまでも自分で行くことができないのです。父は心配して、「代われるものなら代わってやりたい」と言ってくれました。「じゃあ、病気が治ったら洗礼を受けていい?」と聞いたら、「受けていい」と許してくれました。私は、このために病気になったのだ、と自信満々になって、クリスマスの洗礼前には良くなって東京に戻れると思っていたのです。

 ところが、現実はそんな甘いものではありませんでした。完全に治り東京に再び帰るまでには2年かかりました。動けないこと、その中で、私は主に叫びました。受洗はどう考えても神のみこころです。また、病院では毎週の礼拝の恵みも受けられません。そんなことが神のみこころであるわけがないと思いました。完全に神から断たれたように思いました。何の罪を犯したのか自分を探りました。ヨブのように。しかし、ヨブと同じように答えは出ませんでした。

 東京の牧師は、イエスさまが羊たちを大きな手で囲んでいる絵はがきを送ってくださり、「このことを感謝してみてください」と書かれていました。そのご愛には本当に慰められました。けれども、私はこんなこととても感謝できるわけがない、と一蹴したのです。まだ、感謝に対して目が閉ざされていたのです。そして、相変わらず苦しい毎日を送っていました。

 ある日のこと、神さまが、私にその苦しみについて教えてくださいました。それは、あこや貝のことでした。あこや貝は、真珠を作る貝です。真珠を作るには、まずあこや貝に傷を入れそこに核となるものを押し込みます。すると、それが痛いのであこや貝は、自ら液を出して核を覆おうとします。そして、それが何年もかけて、真珠に育っていくのです。

 「あなたに許されたことは、これである」と神は言いました。「今は痛いが、この中で神は宝石のような真珠をやがてあなたに造ろうとしているのだ」と。もちろんこの一言で、すぐに私の悩みや苦しみが消えたわけではありません。しかし、19歳から、今60歳になって、私は確かに神のおっしゃる通りであったと思います。

 思いもしない試練が、突如あなたを襲うかもしれません。その理由を考えても分からないかもしれません。

 イザヤ書にこういうみことばがあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ- 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(5589節)

 神さまの計画というのは、私たちの思いを越えて、はるかに高いのです。

 ヨブは、神さまがどんな方か、試練を通して学びました。神は、ヨブに「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」と言いました(ヨブ記402節)。ヨブは、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。(中略)それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」と申し上げました(ヨブ記4226節)。

 神は、その後、ヨブの前の半生より後の半生をもっと祝福されました。今いわれなき試練にある方、どうか感謝してください。必ずそれが抜ける時が備えられています。先が見えなくても、必ず試練には終わりがあります。そして、試練を抜けると試練が許されたこと以上の祝福を必ず受けます。

 そこにはより優れた神さまの計画があるのです。ヨブは失ったものの2倍を受けました。しかしそれ以上に優れた祝福は、神を知るということではなかったかと思います。そして、これこそが神が与えてくださる真の祝福ではないかと私は思います。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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