2025年5月28日水曜日

放蕩息子

 ルカの福音書15章で、有名な放蕩(ほうとう)息子のたとえという箇所があります。

 ある人に、息子が二人ありました。弟は放蕩息子でした。まだ父が存命中なのに、父に身代を分けてくれるよう願い出ました。父は、そのわがままを聞き入れてやり、財産を兄と弟に分け、弟の分を彼に与えました。

 それから、幾日もたたないうち、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。しかし、彼はそこで放蕩三昧を尽くして、湯水のように財産を使い果たしてしまいました。

 そこに、その国にききんが起こったのです。彼は食べるのにも困り始めました。それで、ある人の所に身を寄せました。その人は彼を畑にやって、豚(当時忌み嫌われていたもの)の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、誰一人、彼に与えようとはしませんでした。世間は、放蕩息子が思う以上に厳しいものでした。

 こうして、われに返った放蕩息子は、こう言いました。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。』

 こうして、彼は故郷の父のもとに行きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は息子の姿を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。放蕩息子は言います。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。

 ところが父親はしもべたちに言いました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」。こうして、祝宴が始まりました。

 そこに仕事を終えて帰って来たのが兄息子です。これはいったい何事かと尋ねると「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」。すると、兄は怒って、家に入ろうとしませんでした。

 父は出て来て、いろいろとなだめてみました。しかし、兄は父にこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」。もっともな言い分だと思います。

 しかし、父は彼に言います。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。

 この例話が書かれたのは、一つには神の愛がどれほどあわれみ深いものかを示すためだと思います。神は、家出した放蕩息子であっても彼の事を忘れてはおらず、いつ帰って来るかと常に心を寄せていました。それでまだ家から遠かったにもかかわらず、彼を見つけたのです。そして父は、彼をかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。自分に向かって、「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません」と悔い改めている放蕩息子を見ると、父は(神は)、罪のすべてを赦して、助けの手を伸べずにはいられないのです。ここに神の深いあわれみの心が描かれています。それゆえ、祝宴を張って祝ったのです。神の愛とは、このようなものなのです。

 しかし、兄はそれが不満でした。兄が立っていた所は、律法です。子山羊一匹下さらなかったと父を責めました。父の恵みも愛も知らないのです。父は私のものは全部お前のものだ、と言ってくださいました。兄が弟の立場に立っても、父は同じようにしてくださったでしょう。でも、それが兄には見えていなかったのです。なぜでしょうか。それは兄が、父との愛による関係ではなく、ただ律法の内にある関係にしか立っていなかったからです。

 イエスさまは、マタイの福音書で「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(1920節)ということばを語られました。

 忠実だった兄は、本当は一番父の近くにいて、誰より父の愛なることを知っているはずでした。しかし、父の愛を見たのは、放蕩を重ねた罪人である弟の方でした。

 誰でも神に立ち返るなら、そのすべての罪を赦していただけます。神はイエス・キリストを罪の代価として私たちに与えてくださったからです。それゆえ神は、もはや私たちに罪をとがめてはおられません。律法を守ることによっては決して知ることのできない愛を、神は人間に注いでおられるのです。弟はその愛にあずかりましたが、兄はそれを知ることができませんでした。

 私たちもまた、心をかたくなにすることなく、愛なる神を知りましょう。神の愛は、人の思いをはるかに超えて深いのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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