2012年6月9日土曜日

遅くなってもそれを待て

 私の通っていた大学の話ですが、よく教授が定刻より遅れて教室に来ました。
それが大学の先生方のスタイルなのでしょうが、神さまもまた、これに近いことをなされることがあります。約束より遅れ気味にやって来ることがあるのです。
 私たちの教会では、初期のころ、よくアメリカに行って、A教会のプレイヤーチャペルで祈り込む時を持ちました。とはいえ何日も同じように祈るうちに、せっかくアメリカに来たのだから、別の教会、B教会にも行きたい、と無言の圧力がかかりました。
 チームリーダーも、まあいいだろう、ということで、その日の午後、チームはB教会に向けて出発しました。ところが、しばらく走った所で、神さま が、はっきりと、「戻りなさい。行き先はA教会です」とリーダーに語られたのです。
 出掛ける前に言ってくださったのなら何も問題もないのに、すでに出発しています。いまさら帰るとは言いにくいです。しかし、その葛藤の中でリー ダーは、神のみこころを貫き通しました。皆でA教会に戻ると、まさにその日のメッセージから、リバイバルの約束のことばを受けたのです。このこと ばを受けるためにこそ、まさにチームはやって来たのです。
 それは、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク書2章3節)という約束です。このことばが、私たち をリバイバルに向けて養い続けました。
 大きな祝福の前には、よく試しが許されます。主を待てるかどうかです。主を待つ中で、私たちは、探られ、練られ、試されます。しかし、忍耐を全うし、主の時を待ち望むなら、思いを超えた神の栄光を見ることができるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月17日号(第680号)より転載—



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