2025年9月17日水曜日

 TAMANAの奇跡

 最近起こった神さまの素晴らしいみわざをお分かちしたいと思います。それは、自動車に乗っていた時、虹を見たところから始まりました。こういう時、往々にして特別な神さまのご計画が始まるのです。

 ちょうど、西ヨーロッパのワードオブライフという宣教団体から数名の若い方々が日本に来られました。彼らは、ご自分の国で、日本の宣教のために熱心に祈りを重ねておられました。すると、祈りの中で彼らは「TAMANA」という言葉を捉えたのです。「TAMANA」に何かある。「TAMANA」に主のみこころがある、彼らはそう捉えました。
 彼らは最初に「YOKOSHIMA」という言葉が思いに浮かんだそうですが、調べたところそれが「TAMANA」、すなわち日本の熊本県玉名市にある横島町という地名だと分かりました。それで玉名市のいくつかのキリスト教会に連絡をしたのですが、どこからも返事がありませんでした。しかし、連絡はついていないけれども、とにかく日本に行って、トイレ掃除でも何でも良いから「TAMANA」で働いて主のみこころを行いたい。そういう意識を持って、彼らは日本に来て、私たちのTLEA教会にやって来ました。

 するとどうでしょう。私たちTLEAには、九州に「TLEA玉名教会」があるのです。彼らの驚きは非常なものでした。神のことばどおり「玉名」に奉仕できる教会があることを早速、本国に伝え、主をあがめました。そして、彼らは期待を持って「玉名教会」に向かったのです。

 もう一人、この件で感動した人物がいます。それは、「玉名教会」のI牧師です。I牧師は、ずっと神の働きのための助け手が与えられるよう祈ってこられたのです。I牧師の奥様は、お体がご不自由で車椅子の生活をなされています。まさに、お二人は、宣教を助けてくれる方を求めておられました。

 普通、それは近所で与えられるのではないか、というのが私などの浅はかな考えです。ところが、このI牧師の祈りは主に届いて聞かれました。主はこの祈りの答えを何と日本をはるかに超えたヨーロッパから起こされたのです。本当に、私は驚きました。

 神には、場所の制限などないのだということを、学びました。世界全体で主は働きをなしておられるのです。

 かつてある賛美の器が、祈りの中で「長崎」ということばを聞きました。主が遣わされる場所を主がその人に「語る」ということはあるのです。これは、本当に神から来たかどうかを、しっかりと吟味し、そうであるなら、堅く握ってください。そうすれば、神のご計画のその時に必ず成就することでしょう。

 「TAMANA」は、全国的に名が知れ渡っている地名かといえば、決してそうではありません。でも、心を尽くして神の前に祈っていた方がおられたのです。そして、主もその祈りを聞いてくださっていたのです。

 このことを通して、私たちも学びましょう。祈りは聞かれることと、時に思いもよらない所から祈りの答えが来ることを。今回は地球の端から、答えがやって来たのです。

 ゼカリヤ書で、このような約束のことばがあります。「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。」(99節)

 また、マタイの福音書にはこう書かれています。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(778節)

 これは、求め続けるという継続を表すことばで書かれたものです。求め続け、捜し続け、たたき続けるなら、必ず開かれるとイエスさまはおっしゃっているのです。

 忍耐を持って、祈り続けましょう。信じることをやめてはなりません。時が満ちたら、私たちは必ず、祈りの答えを見ます。「TAMANA」の奇跡を覚えて、あなたも主に求めましょう。祈りを聞かれる方がおられることを、生ける神の現実を、私たちはこのことを通して学びました。主に信頼する者は決して失望に終わることがありません。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年9月10日水曜日

熱いか冷たいか どちらかであれ

 ヨハネの黙示録3章に、ラオデキヤの教会に向けて書かれた神のことばがあります。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」(15節)

 その通りです。神さまは、生ぬるいのより、熱いか冷たいかはっきりした姿勢を望まれます。

 代表的な人物と言えば、パウロでしょう。彼は、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司の所に行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼み、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るまで、信者を捕え引きずり出す権限を得て、熱心にその働きを行っていました。まさに行っていることは神に敵対することでした。(使徒912節参照)

 ところが、神はパウロをあわれまれたのです。ダマスコの近くまで来た時、突然天からの光が彼を巡り照らしました。彼は、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」というイエスの声を聞きました。2614節によれば「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」という声さえ聞いています。

 主に出会って、サウロ(パウロ)は一変します。「彼は、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」「彼が私の名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」と主は語られました。(91516節)

 コリント人への手紙第二11章には、パウロが受けた困難の数々が記されています。39のむちを受けたこと、石打ちに遭ったこと、一昼夜、海上を漂ったことなど、並大抵ではない労苦を重ねています。パウロの人生は、イエス・キリストにあって180度変えられたのです。主に反する者から、主の器へと、神は彼を変えてくださいました。あれほど、主に敵対したものが、主の器に、主の使徒へと変えられたのです。たとえご自身に敵対していても、決して生ぬるくはない、ある真実を、主はパウロという人間に見ていてくださったのでしょう。

 チェコのS宣教師は、ある時「この群れから脱会します」という連絡を私たちに送ってこられました。私たちの教会を悪く言う者たちが、S宣教師に入れ知恵をしたようで、私たちは心配しました。特に「脱会」という言葉が重く響き、私たちは祈るとともに、帰って来られるよう求め始めました。そして、A牧師は、「サリーさんは必ず帰って来る」とおっしゃったのです。

 そして、およそ7年でしょうか。S宣教師は悔い改めて戻って来られ、再び群れの宣教師として立つことを許され、その働きを始められました。

 素晴らしいことに、S宣教師が復帰してからの働きは、脱会に至る前までの働きをはるかに上回っているように感じます。神は、これまで以上にS宣教師を用いておられるのです。ウェブコンサートという新しい働きが始まり、東ヨーロッパの働きが幾段にも進みました。さらに、主はS宣教師ご夫妻を用いようとされているように思えます。

 たとえ、主の前につまずくことがあっても、立ち返り主に戻るなら、その問題をはるかに超えた大きな働きを任せてくださいます。主は必ずあなたを用いてくださるのです。神さまとは、そういうお方なのです。

 そういうわけで、私たちは、熱いか冷たいかどちらかでありなさい、という神の声に聞きましょう。そして当然、熱い者でありましょう。パリサイ人で迫害者であったパウロは、主に出会い、キリストのためにいのちをささげ、殉教していきました。熱い人生を歩んでいたパウロだからこそ、神は真理の道へ導かれたのでしょうか。その人生は大きく変わりました。人生はすべて、神が私たちを捕えてくださるものなのです。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年9月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2025年9月5日金曜日

 大切な方を天国へ送った方へ

 誰でも、いつかは天に召され、地上での別れを体験するものです。故人を愛していた者にとって深い悲しみを覚えることもあるでしょう。

 私は、父を肝臓がんで亡くしました。車椅子でも良い、どんな形でも良いから一日でも長く生きていてほしいとずっと思っていました。しかし、どんどんがんは進行しました。治療するのですが常にがんに先手を取られました。がんはどんどん進行し、本当に悔しい思いをしました。

 肝臓がんの末期は、厳しいものです。最後にはおびただしい下血が訪れました。水道水をひねるようなひどい下血が訪れた時、もう駄目だと母は思ったそうです。全身の血が崩壊したような状態になったといいます。吐血ではなく、下血であったことが不幸中の幸いといえば幸いでした。しかし、失血してしばらくすると、いよいよ別れが始まってきました。父に、チェーンストークス呼吸が始まったのです。父は、懸命に呼吸し負けまいとするところを見せてくれました。私たちは、父のもとに立って、一人一人「ありがとう、お父さん。お父さんの子であってよかった。やがて私も後から天国に行くからね。」などとあいさつしました。父はちゃんと聞いてくれていたと思います。

 最期には、父は二人の御使いを見ていたようです。身体を傾け「もう少し生きることをお許しください。」「何とかお願いします。」「どうしても生きたいのです」と3度求めて、しかし、「もう、あなたの地上の時は終わっている」と聞き入れられることはありませんでした。3度求めて聞き入れなかった時、父は「分かりました。」と身体を戻しました。その瞬間瞳孔が開いたのです。父は御使いに両側から抱えられるようにして天に旅立ちました。こういうわけで、父が天国にいることに疑いはありません。しかし、いなくなった父への寂しさはなくなりません。その時、読んだのがマタイの福音書です。

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイの福音書61920節)

 これを読んで、本来の聖書解釈を超えて、父が天にいることが最善だと分かったのです。自分の宝とは、私にとって父のことでもあったからです。これ以上、父が病んだままで地上にいるなら、がんという虫が来て、さびが出て、傷もののままなのです。さらに損なわれることも起こるでしょう。

 だから、大切な人を天にたくわえること、つまり天に送ることはより優れたことなのです。確かに、寂しさはあるでしょうが、天に大切なその人を送るなら、もはや病も朽ちていくものもありません。天国は最善の場所なのです。

 アンデルセンの物語で、子どもを死神に連れ去られたお母さんが、子どもを追いかけて、子守歌を歌うことを引き換えに、また、いばらで胸から血を流すことを引き換えに、さらに、二つの目を引き換えに、湖を渡り、ようやく子どもの所に、死神の住まう所にたどり着きました。子どもの命である二つの花を引き抜こうとした時、死神は、手を出してはいけないと言い、二つの人生を見せました。その時、地上において苦しい道を行く子どもの姿と、天国で慰められている子どもの姿を見せられ、どちらを選ぶのか、と問われたという話があります。お母さんは、答えられず結局、この子のために一番いいようにしてください、と答えるにとどまったそうです。

 何が幸せかということは、そうそう判断できるものではないでしょう。しかし、「宝」すなわち、「大切なものは天にたくわえなさい」という神のことばには、聞くものがあると思います。

 もし、愛する人を亡くした方がおられるなら、天国でその方と再会することを喜びとしてください。その方が、既に天にいるなら、さらなる希望を持ってください。天は最善の場所であるからです。

 私は、父が天国に行ったことで、病の傷や痛みがいやされていることを信じています。地上ではがんでつらい思いをしましたが、天国において慰めを受けているのではないでしょうか。天国は最高の場所です。

 ただ、イエス・キリストを主として信じるだけで、あなたも天国に行くことができます。例え、私たちのこの世の命が尽きたとしても、天国にて永遠に生きることを許され、そして天において、先に天に行った人たちと再会することができます。それも生きて再会するのです。

 天の御国に望みを置く時、私たちが失うものは、何一つないのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年8月27日水曜日

 信仰の歩み~私の献身

 大学を卒業した時、中学校の教員に採用されました。父は大喜びで祝ってくれましたが、私の心は決まっていました。教員になるのではなく、神学校に進み、牧師になりたいという願いが強くあったのです。

 だんだんと時期が過ぎ、ついにある日、父に「私は、教師にはなりません。神学校に行き、牧師を目指します。」と打ち明けました。父もうすうす気づいていたでしょう。案の定、怒り、こう言いました。「今、着ている物だけは許してやる。しかし、他の物はみな俺が買い与えた物だ。身一つで出て行け。」

 「ありがとうございます。」。深々とお辞儀をして、父からの勘当を受けました。それは、信仰の歩みのスタートでした。経済もなく、住む家もなく、無茶なことを若さに任せて行ったものだと思います。

 マタイの福音書14章が、その時の私を支えてくれたみことばです。まず、27節に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」というイエスさまのことばがありました。これは、神から来ていると、恐れるなと、イエスさまは語ってくださいました。

 次に、経済の満たしをどうすればよいかですが、クレイジーなのは承知ですが、まさにペテロと同じことを主に求めました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(28節)

 奇跡を主に求めたのです。しかも、主のことばとして、水の上を歩けということばを求めたのです。イエスさまが、水の上を歩けとおっしゃったなら、歩ける。そう信じたのです。お金もない私が生きて行けるしるしを求めました。おぼれて失敗することなく、自然現象に反することが、イエスのことばによって起きるでしょうか。

 イエスさまは、「来なさい。」と言ってくださいました。「そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(29節)。何と奇跡が起こったのです。これは、私にとって大きな慰めでした。奇跡が起こるということが書いてあるのですから。

 「ところが、(ペテロは)風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。」(30節)。イエスさまから目を離し、風を、現実を見てしまったペテロは、信仰の世界から現実の世界に戻るのです。するともう、みことばには立てず、現実のままに沈みかけたのです。

 「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」(31節)。「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。」(32節)

 神の約束のことば以外何も持っていない私が生きて行けるのか、それは、イエスのことばを信じて水の上を歩くようなものでした。しかし、「できる」とイエスさまは、ペテロを通して語ってくださいました。

 しかし、ペテロはすぐに沈んでいったのです。けれども、私の友人は、「沈みかけた時イエスさまはすぐに手を伸ばして、彼をつかんでくださったではないか。溺れないよう直ちに助けてくださったではないか。信仰の歩みが破綻しそうな時、その時にはイエスさまは直ちに手を入れてくださるのだよ」と私を励ましてくれました。

 それで、勇気を得て、水の上を歩く人生を始めることにしました。神が献身を導かれたのだから、ということで祈りだけで生活の糧を求めました。また、正直に祈りました。「体力がありません。軽い仕事で時給の良い仕事をください」。すると、一件の電話がかかってきて、予備校の教師の職が与えられたのです。十分ではありませんが、水の上を歩く生活はすることができました。

 そして、1年もたたないうちに結婚が導かれ、さらに1年後には牧師夫人となっていました。信仰の歩みは、不確かなもののように見えますが、これほど確かなものはありません。確かに、神は、主イエスは、私たちを支えてくださっているのです。

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル人への手紙116節)

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年8月20日水曜日

 医者を必要とする者

 次女が、おなかの中にいた時、入院していた病院から56分離れた教会に礼拝出席しようとしたところ、看護師の方々に「無理です。よしなさい」と止められました。それで、聖書を開けてみるとルカの福音書5章から「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(31節)というみことばが示されました。これは、どういう意味だろうと考え込みました。今なら、入院している病人なのだから、礼拝はお休みしなさいという意味に受け取ることもできるみことばだと分かります。

 ところが、「私は、病人かしら?」とか「お産は病気じゃないわね」とかすっかり惑わされ、神のことばに聞くことができず、礼拝を強行しました。すると、教会からの帰りに出血してしまい、切迫流産で絶対安静を言い渡されました。こんなにはっきりとみことばから語られていたのに、愚かだったと反省しました。

 世の中には、医者を必要とする人々がいます。病人です。医師の治療によらないでは生きることもできない人もいるのです。反対に先ほどのみことばにあるように、丈夫な人というのもまたいます。これらの人には、医者は必要ありません。自分で生きていけます。しかし、私のように医師を必要とする者もまたいるのです。

 イエスさまは、このたとえで、ご自身が医師であることを語っておられるのです。ご自身なくしては生きていけない者たちをご存じなのです。それは、病気に限ったことではありません。もちろん、イエスさまは病をいやしてくださり、医者のような働きをなさいました。しかし、イエスさまが語ろうとしているところは、もっと広いのです。

 ルカの福音書532節にこう書かれています。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」。また、マタイの福音書では「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」とも書かれています(913節)。

 イエス・キリストは、罪人の主となるために来られたお方です。罪人であるということを知った人々を悔い改めさせ、正しい道に歩ませるために、主イエスは来られたのです。イエスのあわれみは深いのです。罪人をさげすまれません。罪人の医者として、罪の縄目から解放してくださいます。ご自身おっしゃる通り、罪人を招くために来られたのです。

 ヨハネの福音書8章に、姦淫の場で捕らえられた女のことが取り上げられています。律法学者とパリサイ人は、「モーセの律法ではこういう女は石打ちにするよう命じていますが、あなたは何と言われますか」(5節)とイエスに問いました。イエスは、相手をしませんでしたが、彼らがあまりにも問い続けて止めなかったので、一言こう言いました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)

 年長者から始めて一人一人出て行き、イエスさま一人が残されました。イエスさまは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)と女におっしゃいました。

 こうして、主イエスは罪を赦すという働きをなさっていました。どんな罪も、イエスさまが赦されない罪はないでしょう。赦し、悔い改めさせ、正しい生き方を取り戻させるために、イエスさまは、来られたのです。これが、イエスさまが医者だという理由です。

 ただ、気になるのは「正しい人」です。「正しい人を招くためではなく」(ルカの福音書532節)、と主イエスは言われましたが、果たして「正しい人」なんているのか、それが私の疑問です。「正しい」と思っている人は、イエスの元に来ないでしょう。ですから、「罪人」の自覚を持っている人は、「正しい」人以上に赦され祝福されています。

 「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」というこの主イエスの恵みをしっかりと心に留めましょう。

 自分を罪人と認める人、自分の弱さを知る人、そして主の元に来る人を主は赦し、助け、用いてくださるのです。病人とは無力で、とにかく医師に頼るしかありません。私たちも、罪に無力な者ですが、イエスさまが私たちをあわれみをもって救い出してくださいます。罪人の主と語られた主は、私たちを悔い改めさせ、神に立ち返させるために世に来られたのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年8月13日水曜日

イザヤの召命

 イザヤ書6章で、イザヤは神々しいまでの幻を見ました。彼は高く上げられた王座に座している主を見ました。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていました。セラフィムにはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛んでおり、互いに呼び交わして言っています。

 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。

 「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」。4節にはこう書かれています。圧倒的な主のきよさとご臨在をイザヤは見たのでしょう。

 すると、イザヤは言います。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。

 この一文は、原語ではさらに激しい嘆きであるといいます。「ああ、私にはもう望みがない。私は、最低だ。どうすることもできない汚れたものだ。人々は皆神の前に汚れており、私もまた汚れたものだ。ああ、どうして、神の前に立つことができようか。私はもうおしまいだ。私はわざわいだ。」。そんな激しい慟哭なのだそうです。イザヤは神の幻を見たことによって徹底して激しく打ちのめされました。おのれの汚れ、また罪を、王座に座しておられる主を見たことによって、激しく意識したのでしょう。主の前にとても立てない自分を意識しました。

 しかし、イザヤに望みがありました。67節にはこう書かれています。「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖(あがな)われた。』

 神は、燃えさかる炭をセラフィムを遣わして、汚れに満ちたイザヤの口に触れさせました。そのことによって不義に満ち、どうしようもなく汚れて、罪に満ちたイザヤのくちびるは贖(あがな)われたのです。

 その時、イザヤは主の声を聞きます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう

 そこでイザヤは、声を聞いて応答します。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」。すると、主はイザヤに「行って、この民に言え。」から始まることばを下さり、イザヤを預言者として用い始めてくださったのです。

 イザヤが立てられるまで、彼がどん底と言えるような所を通ったことを忘れないでください。大きな働きの前に神は、しもべを本当に低くされます。いかに自分が汚れた者か教えられるのです。

 イザヤは自分に絶望していました。しかし、それが神のご計画であり、恵みであったのです。神は祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭をもって、イザヤの口に触れたのです。それによって、イザヤの不義は取り去られ、罪も贖われました。そして、預言者として応答することができました。

 どんなに自分に絶望することがあっても、唇の汚れた者であっても、神は神の方法をもって、ここでは炭を持ってきよめてくださいました。私たちも、この目で神を見る時、その聖なる姿に、もう自分は駄目だ、とどん底に下る時があります。とことん低くされますが、実はそれこそが神の召命であり、神はそれを通して私たちを立て上げてくださるのです。

 イザヤは、働きに立つ前にとことん自分の汚れを見せられました。しかし、神は、そのイザヤをきよめてくださり、召し出すことばを下さったのです。ですからあなたも、とことん自分に失望する時、その時こそ、神の召命の時と知りましょう。

 神は低くされたあなたを、神の御前で高く用いてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年8月6日水曜日

 教会のとりなしの祈り

 先日、親しい方々と近況を分かち合いました。私の順番が来た時、87歳になる母のことを話しました。少し認知症的なものを感じる状態です。よく忘れるし、毎晩読んでいる詩篇においても、以前は感想を述べていたのに、黙っていることが多くなりました。分かっているのかどうか、判断に苦しみました。また、急に怒りっぽくなったり、他にも冷蔵庫を開けて食物を取ることもしていないそうです。老いは誰もが通る道。でも、いつまでも壮健でいてほしいものです。最低限の生活が自力でできるよう求めました。

 すると何名もの方が尋ねてくださり、「お母さんはどうですか?」と声を掛けてくださったのです。「お母さんにはお世話になったから」と言ってくださる方もいて、母のことを心にかけてくれました。そして、祈りをささげてくださったのです。

 びっくりしたのは私です。それ以降、母の認知の症状がはっきりと良くなったのです。詩篇を読むと、以前のように、「ほんと、詩篇には力があるわね」と言い始めたのです。「このことについてはどう思う?」という問いに関しても、「こうしたらどう?」という答えが返ってくるようになりました。

 これは、とりなしの祈りの力、教会の祈りの力であると思います。神は、私たちの祈りを地に落とすことはされないのです。必ず、祈りは、芽が出て成長し、実を結ぶのです。母の一件を通して私は祈りの力を学びました。

 これは、奇跡だと思います。とても思いもできなかったほど明瞭な意識が与えられているのです。祈りが奇跡を起こしました。教会の祈りには、大きな力があるのです。

 使徒の働き12章には、興味深い記述があります。ヘロデ王がヤコブを殺した後、次にペテロを捕えて牢(ろう)に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させました。(中略)こうしてペテロは牢に閉じ込められていて、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていました。

 「ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。

 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

 そして、御使いが、『帯を締めて、くつをはきなさい』と言うので、彼はそのとおりにした。すると、『上着を着て、私について来なさい』と言った。

 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。

 そのとき、ペテロは我(われ)に返って言った。『今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。』

 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」(使徒の働き122節~12節)

 聖書の中でも、これほど教会の祈りが聞かれた例は特筆されるべきものでしょう。教会のとりなしの祈りを通して、神は御使いを送り、奇跡の手をもって、祈られていた通りに、神はペテロを助けられたのです。

 祈りには力があります。祈りは神の手を動かします。また特に、教会の信者たちが心を一つにして祈るその祈りは必ず応えられます。祈りは気休めなどではありません。奇跡が起こるのです。祈りは強力な確かな武器なのです。祈りが満ちる時、御使いさえも差し向けてくださるほど、神は私たちの心からの祈りと願いに応えてくださるのです。

 あなたのとりなしの祈りも、必ず聞かれると知ってください。それゆえ、信じ祈りましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年8月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/