2023年10月25日水曜日

宣教のことばの愚かさを通して

 マタイの福音書1626節にこう書かれています。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう

 まことのいのちとは、私のいのちであるとともに、イエスさまとイエスさまにあるいのちのことです。イエスさまは、私たちの救いのために、すべての罪を身代わりに負って、十字架の死を遂げられ、3日目に復活されました。そして、この十字架を代価として、イエスさまはただ一度、罪や死から完全にまた永遠に、私たちを贖(あがな)ってくださいました。イエスさまの十字架の死は私のためであったと罪を認め、悔い改めてイエス・キリストを心に迎え入れるなら、その人はすべての罪の赦しを得、救いを受けます。私たちは神の子となり、永遠のいのちが与えられます。

 このいのちは何よりも尊く、全世界を得るよりも大切なものだと福音書の著者は語っています。ただ恵みによって、私たちはこの永遠のいのちを受けます。これが信仰の素晴らしいところです。「救い」は努力や能力などによって勝ち取るそのようなものではありません。一方的な神の恵みによるもので、「救い」は信じる者なら誰にでも与えられます。ただ信じる。それだけで、誰であってもまたどのような状況であっても救われます。神の知恵は、「救い」を、信仰を通して受けるものとされた点にあると私は思います。

 というのも、コリント人への手紙第一1章に、このように書かれているからです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする』(中略)事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(181921節)

 ここでも、「救い」は信仰によること、十字架のことばの愚かさを通してもたらされるものであることなどが書かれています。神さまはあえて、理性や賢さによって「救い」がもたらされることがないよう、その「救い」の方法に信仰を選ばれたのです。そして、これが神の知恵でした。

 信仰は世の知恵によれば、愚かに見えます。しかし、その愚かに見える信仰こそ、私たちを救いに至らせるものなのです。パウロもモーセも、学があり知恵の人でした。世の成功の中にいたのです。しかし、彼らはすべてを捨てて、イエス・キリストのしもべとなり、ある時は民を導き、人々に理解されなくても神に聞き従う人生を選び、死に至るまで忠実に神に従い通しました。その変容は、世の人から見れば、正気の沙汰ではないと思われるほどのものでした。地位も学もある彼らがなぜその良きものを捨て神のしもべになるのか、大いに疑問でしょう。

 それは、この福音が神から出ており、ここにこそ、まことのいのちがあるからです。キリスト・イエスの義は、すべてをなげうっても得たいと願うほど高価で素晴らしい宝石に例えることができます。それを見出した彼らは、躊躇(ちゅうちょ)なくそれを選んだのです。

 人は、たとい全世界を得たとしても、まことのいのちを損じたら、何になるでしょう。むなしくちりに帰るだけです。しかし、イエス・キリストを信じるなら、私たちは救いを得、永遠のいのちを受けるのです。イエスの宣教は、世々にわたって十字架のことばの愚かさを通してもたらされました。信じること、これより外に求められるものはただ一つとしてありません。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年10月25日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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