2023年11月2日木曜日

あわれみといけにえ

  マタイの福音書9章のことです。パリサイ人たちは、イエスさまが罪人(つみびと)とともに食事をしているのを見て、それをさげすみました。それに対して、イエスさまは「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」、とおっしゃいました(13節)。これは、神の手を動かすのはあわれみであって、いけにえによるのではない、という意味です。人は罪人(つみびと)であるので自分で自分を贖(あがな)うことができません。ですから神はあわれみを語り、恵みの内に私たちを救ってくださるのです。これは、聖書の軸となる教えです。

 ルカの福音書18章に興味深い記述があります。パリサイ人と取税人、2人の者が祈るために宮に上りました。パリサイ人はそこで心中こんな祈りをささげました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」。一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人(つみびと)の私をあわれんでください

 聖書では「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(914節)と書かれています。あわれみは好むがいけにえは好まないというイエスさまのおことばは、この例話からも読み取れます。主は私たちがあわれみにより頼むことを好まれるのです。

 私たちの失敗は自分で自分を高くしてしまうことにあります。パリサイ人が誇り高々に述べた祈りの数々は、確かにそうそうできるものではないと思います。けれども神はそれに目を留められず、ただあわれみを請うた取税人を義(正しい)とされたのです。

 詩篇5117節にこんな一文があります。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」。これは、ダビデの詩です。ダビデはウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、それを隠そうとウリヤを激戦区に送り殺してしまいます。姦淫に加えて殺人の罪を犯したダビデに、神は預言者ナタンを遣わしその罪を指摘されました。するとダビデは即座に「私は主に対して罪を犯した」と罪を告白します。すると「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」と神は語ってくださいました。これがあわれみなのです。

 罪人(つみびと)である私たちに対して、神のあわれみは実に深いです。主は砕かれたたましいを貴重なものとして受け取ってくださいます。さげすまず、むしろ寄り添い、そこに真実な悔い改めがあるなら、罪より深いあわれみを神は注いでくださいます。

 人の罪を赦すことのおできになる方はイエスさま以外にありません。イエスさまは、いけにえは好まないと語られました。そもそもそのいけにえも、本をただせば神がお造りになったものです。このようなものに人の罪を贖うような力があるでしょうか。

 それゆえ主イエスは、私たちに神のあわれみを学ぶよう勧められました。イエスさまは滅びに向かう私たちをあわれみ、十字架による救いに導かれました。私たちは神のあわれみによって無条件で救われたのです。そして、今や神の子です。神のあわれみにより頼み、恵みある人生を送りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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