2022年7月19日火曜日

信仰

  マルコの福音書9章に、おしとつんぼの霊に憑かれた息子を持つお父さんが登場します。霊が取りつくと息子さんは、所かまわず押し倒され、あわを吹き、歯ぎしりして、体をこわばらせてしまいます。それで、イエスさまのお弟子さん達に霊を追い出してくださるようお願いしたけれど、お弟子さん達にはできませんでしたと、そのお父さんはイエスさまに言いました。

 イエスさまは、「ああ、不信仰な世だ。(中略)いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい」と言いました。その子がイエスを見ると、霊はその子をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回りました。

 「この子が、こんなになってから、どのくらいになりますか」とイエスさまは父親に尋ねました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」

 するとイエスさまは、こう言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。それを聞いてお父さんは叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」

 お父さんが神の御業にあずかるには、信仰が必要であったのです。それ故イエスさまは間髪を入れずにお父さんを叱責されたのです。思わずも「もし、おできになるものなら」と言ってしまったお父さんの気持ちは痛いほど分かります。今まで、良くなる可能性があると聞けば、どこまでも足を延ばし、ありとあらゆる方法を試しては、いやしを期待したでしょう。お父さんはたくさん希望を抱きましたが、また同じ数だけ失望を味わったのです。

 イエスさまはお父さんにとって、期待できる最後の望みであったかも知れません。これ以上失望したくないという気持ちが心の中に芽生えていたとしても、何ら不思議ではありません。すべてをご存知なイエスさまは、霊に憑かれていた息子だけでなく、そのお父さんをも救おうとされました。それで「できるものなら、と言うのか。信じるものには、どんなことでもできるのです」。この言葉をもって父親を叱責されたのです。これには父親も驚き、瞬時に信仰を取り戻し、立ち返りました。「信じます。不信仰な私をお助けください」。そう叫んだのです。

 聖書のへブル人への手紙は、信仰の書と言われており、信仰とはどういったものであるかが述べられています。その116節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と書かれています。

 何を信じればよいか、それは二つです。神がおられること、求めるなら報いてくださること、これを信じるのです。

 あなたがもし神の御業を見たいと思うなら、信仰が必要です。神は、この瞬間にも生きておられます。私達を愛し、最善をはかり、すべてを益にしてくださいます。神におできにならないことは一つもありません。信仰と信頼をもって神に近づくそのあなたを、神はご自身の喜びとしてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2022年7月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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