2022年1月26日水曜日

死は解決ではない

  かれこれ4半世紀になるでしょうか、日本にバブルという特別な時代が訪れました。異常な好景気で、皆、株やゴルフの会員権、高価な時計や装飾品、土地などを買い漁りました。それがまた高く売れるのです。Aさんという知人がいましたが、彼は、転売して利鞘を稼ぐために借金をしてあちこちに土地を買いました。ところが間もなくバブルは破綻し、地価は暴落し、一転して莫大な借金だけが残りました。そんな時、突然Aさんが心臓発作で亡くなられたというニュースが入ってきました。ところがそれは自殺だったのです。返せないほどの借金を抱えたAさんは、死より外に解決を見いだせず自死を選んでしまいました。

 人はなぜ、死を選ぶのでしょう。楽になりたいから、というのが多くの人の語るところです。生きているのがつらいので、死んだ方がましだと思うのです。でも、本当にそうでしょうか。私たちにとって自死は,最後の切り札だと多くの方が思っています。死ぬことは行くことはできても、戻ることはできない一方通行の切り札で、あだやおろそかに用いるものではありません。死んだからといって、解決する保証などどこにもないからです。

 とはいえ、私も長い間自殺願望を持っていました。それは、医学の助けを必要とするほどのものでした。しかし、ある時からそこから解放されはじめました。というのも、自殺の思いを突き詰めていくと分かってきたことがあったからです。それは、私たちが直面する死は決して終わりではないということです。たとえ死んでも、死んだ先でも自分は自分という存在を持っていて、神の前に、神に対して生きています。死後の世界の中でも、生きている時と同様、そこでもなお死にたいと訴えているだろう自分の姿を、容易に想像することができました。死んだら無になる、そう私は思っていましたがとんでもない。決して無になどならないこと、私たち人間はそういう存在として造られているのだということを、神さまは示してくださいました。

 人の営みは死をもってしてもなお、終わるものではありません。死ぬことは肉体の終わりではありますが、霊たましいは神の領域にあるものであって、人は己の存在を消すことなどできません。また、それができるのは神さまお一人で、神さまはそういうかけがえのないものとして人をお造りになったのです。そしてかけがえのない愛で人を愛しておられます。

 死にたいと訴えるのは、往々にして解決が欲しいということの裏返しです。死を求めるのは、死が解決であると思っているからです。しかし、そうではないことは既に述べた通りです。問題の解決は、死ではなくイエス・キリストの内にあるのです。死は解決ではありません。

 それ故どうかイエスにあって生きる勇気を求めてください。なぜなら神はあなたを愛し、あなたを助けたいと思っておられるからです。イエス・キリストは、あなたを救うために世に来られ、あなたが神の元へ帰ることができるよう、十字架の死によってあなたを贖ってくださいました。そして聖書にはこう書かれています。

 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ人への手紙832節)イエスの慰め、イエスの助けこそが本当の解決です。

MIKOE NEWSから転載」 2022年1月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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