2022年1月11日火曜日

十字架

 今は昔。(今となれば昔の話になりますが、)私は讃美歌262番が大好きで好んで歌っていました。「十字架のもとぞいと安けき。神の義と愛の会えるところ」というこの歌詞がとても心に響きます。神の義とは、神の正しさであり、神はそれ故に、人の罪を看過することはできません。しかし、神は私たちを愛されました。罪人であり、それ故神と断絶している私たちを憐れみ、何とか救いたいという神のご愛から出たのが、イエスの十字架です。

 神は私たちを愛するが故に、私たちの罪を、私たちでなく御子イエス・キリストの上に置かれました。イエスさまは私たちの罪を担い、十字架の死と、それに続く三日目の復活によって、私たちの罪を贖ってくださいました。讃美歌で歌われているように十字架は、神の義と愛の二つのものが出会い、一つとなった愛のかたちです。

 このことに関しては、エペソ人への手紙2章で次のように書かれています。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(中略)このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです」(1416節)。

 二つのものとは、直接的にはユダヤ人と異邦人を差し、隔ての壁は、エルサレム神殿のユダヤ人の庭と異邦人の庭を仕切る壁のことをいいます。また、ご自分の肉において敵意を廃棄したというのは、キリスト・イエスが、肉体を取ってこの世に来られ、十字架で死なれたことをいっています(チェーン式バイブル脚注より引用)。深く読むなら、十字架は、神と人との和解であり、イエス・キリストによって実現されたものなのです。

 救いは、ただ十字架によってもたらされます。イエスさまが十字架で死んでくださったのは、復活の力によって死からの贖いを果たし、私たちを死から命へ買い戻すためでした。私たちには原罪があり、私たちは罪の奴隷で、その行き着く先は死です。誰もそれから逃れることはできません。しかし、神はそのことをよくご存知なので、イエスの十字架によって私たちを贖い、信仰と救いを下さいました。

 イエスの名によって悔い改めるならその罪はすべて赦されます。神は罪無きご自身と罪を持つ私たちを、イエスの十字架によって和解させ一つにしてくださったのです。

 こういう訳で、誰でもキリストの十字架を信じる者は、罪の赦しを受け、その人は死から命に移っています。また、私たちはイエス・キリストを信じることによって神の子としての身分を受けています。十字架によって私たちは神との和解がなされているのです。十字架の救いを受けましょう。これこそ私たちに永遠のいのちをもたらす神のご愛なのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2022年1月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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