2021年9月6日月曜日

いやされる信仰

 いやしと信仰は密接な関係にあります。私の母は、奇跡の人と呼ばれています。母はアレルギー体質なので病気になっても副作用を考えると薬が使えません。安静しか治療方法がないというのが現状で、医者もさじを投げています。そんな母は、イエスさまだけが唯一の拠り所です。膀胱がんがいやされ、リューマチがいやされ、臨終からの生還も果たしました。次々と病がいやされているので人は母を奇跡の人といいます。しかし、側で見ていた私には分かります。母にはイエスさましかなかったのです。1人で、いったいどれほど深くイエスさまにすがったのでしょう。

 聖書に、母と重ね合わさるようなある婦人のいやしが取り上げられています。(マルコの福音書5章参照)この婦人は、12年の間長血をわずらっていました。医者に恵まれず、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったのに、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。その中で婦人はイエスによってなされるいやしの評判を聞きつけ、自分にも起こると信じたのです。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」そう一心に信じて、群衆の中からイエスさまの着物に触れました。するとたちどころに血の源が枯れ、完全にいやされました。

 イエスさまはいろんな形でいやしの働きを成しておられます。いやしは一方的な主の恵みです。とはいえ、いやしは信仰をベースに持つように思います。いやされるのに必要なものは信仰です。信仰といっても不信仰から搾り出すような信仰ではなく、恵みとして神がその時に与えてくださる信仰があります。

 もう20年以上昔になりますが、その頃私は病人で、イスラエルのヤボク川のほとりに居ました。黙想しているところに、牧師が現れて私に言うのです。「あなたの病気はいやされてきているのではないの?」それを聞くと御霊に感じてすぐに祈りました。「主よ。もし私がその通りいやされてきているなら、これを含めて3度牧師が私がいやされていると言いますように。そうすれば私はいやされます」

 すると、また牧師が現れ、ついには3度、いやされているのではないかと語ったのです。その瞬間です。たちまち私を縛っていた霊の鎖が解け落ち、聖霊による自由とキリストにある喜びが心に差し込みました。私は、いやされたのです。

 いやしの現場に立つ時、いやされる信仰というものが働きことを思わされます。私がいやされたのも、いやしを信じ祈ったからです。長血の婦人も、母も、イエスさまは最後の望みでした。自分にはもう、イエスさましかいない。でもイエスさまならきっと、とそう信じてすがった信仰に神は働かれました。

 誰であれ、願いや信仰を持ってイエスさまに近づくなら、奇跡に与ります。主は豊かに憐れんでくださいます。死の淵にいたとしても、救ってくださいます。神にいやせない病などありません。主イエスは、あなたを助け、あなたを守り、あなたの力となってくださいます。

奇跡は今でも起こります。あなたも主イエスを信じて、あなたの人生の中でこの奇跡を体験してください。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年9月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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