2021年9月14日火曜日

イエスキリストの御名によって

 新約聖書、使徒の働き第3章でのことです。ペテロとヨハネが午後3時の祈りのために宮に向かうと、「美しの門」と呼ばれる門で物乞いをしていた男が施しを求めました。ペテロがヨハネとともに、その男に「私たちを見なさい」と言うと、男は何かもらえると思って二人に目を注ぎました。

 するとペテロは「金銀は私にはない。しかし、あるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」そう言って男の右手を取って立たせたところ、たちまち足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしました。歩いたり跳ねたりしながら神を賛美しつつ、宮に入っていきました。

 これを見て群衆は皆、驚きあきれ、いっせいに彼らのところに押し寄せてきました。ペテロはこれを見てこう言いました。「イスラエル人たち。なぜ、このことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。(中略)イエスの御名が、その御名を信じる信仰の故に、あなたがたが今見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです」

 この告白は多くの示唆に富んでいます。1つには、いやしは主のみわざであるということです。ペテロやヨハネは用いられましたが、いやしは彼らの力や信仰で起こったのではないということです。2つめは、イエスの御名が、イエスによって与えられる信仰が、いやしというわざを生んだのだということです。いやしは神のものです。イエス・キリストが十字架で贖ってくださったその打ち傷によって、いやしは起こるのです。

 ペテロは、ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい、と語りました。いやしや奇跡は私たちから出るものではなくイエスの御名に力があるのです。また、同412節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と書かれています。

 私たちは、御名によっていやされ、御名によって救われるのです。イエス・キリストの御名には力があります。私たちは、この御名に期待しましょう。信仰は、無い所から苦労して搾り出すようなものではなく、イエスによる折々の助けがあります。それは、恵みによって与えられるものです。主は私たちが信じることができるように、その信仰さえ備えてくださっています。

 間もなく時が来て、私たちは信仰による神の現実を、今まで以上に体験するようになるでしょう。イエス・キリストの御名によって救いを受け、またいやしを受けましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年9月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

0 件のコメント:

コメントを投稿