2013年1月1日火曜日


祈りの達人

 かつて教会にO牧師という方がおられました。祈りを専門として、教会に仕え

ている方です。この牧師は1日8時間以上も祈ります。

 教会の親睦会で、よくソフトボールにも駆り出されるのですが、O牧師は球の

来ないよう外野を選んで立ちます。しかし、そこでも球が来ないよう祈 り続け

ているのです。そしてそのためであるのか、O牧師の方向に球が飛んでくると、

球が考えられない方向にそれるのです。一度や二度ではありませ ん。

 ボーリングでも同様でした。セミプロの人が居たにも関わらず、試合では、不

思議な倒れ方をしたピンのおかげで、O牧師の優勝になりました。

 また同労者であるA牧師も、祈りに覚えがあります。野良猫に、餌を上げたい

と思って、コチラにやって来るよう神さまに祈ったところ、何と、すぐ に猫が

やって来て、餌を頂きました。

 祈るなら、ささいな事でも神さまは聞いてくださいます、と証しておられました。

 祈りは高尚なもので、こんな日常生活の中で軽々しく用いるのはいかがなもの

か、という向きもあるでしょうが、しかし、答えるかどうかは神さまの 問題で

す。私たちは大胆に、祈りをもって主に求めることができるのです。

 ヘブル人への手紙には「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをい

ただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近 づこう

ではありませんか」(4章16節)と書かれています。神さまは不可能を可能に

し、ご栄光を現してくださいます。

 祈りを用いるかどうかは後になると大きな差となります。祈らないことは大き

な損失です。折にかなった助けを得るために、あなたもイエスさまを信 じ、祈

りましょう。(イスラエル北野)
 
み声新聞2012年12月30日号(第708号)より転載—

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