祈りの達人
かつて教会にO牧師という方がおられました。祈りを専門として、教会に仕え
ている方です。この牧師は1日8時間以上も祈ります。
教会の親睦会で、よくソフトボールにも駆り出されるのですが、O牧師は球の
来ないよう外野を選んで立ちます。しかし、そこでも球が来ないよう祈 り続け
ているのです。そしてそのためであるのか、O牧師の方向に球が飛んでくると、
球が考えられない方向にそれるのです。一度や二度ではありませ ん。
ボーリングでも同様でした。セミプロの人が居たにも関わらず、試合では、不
思議な倒れ方をしたピンのおかげで、O牧師の優勝になりました。
また同労者であるA牧師も、祈りに覚えがあります。野良猫に、餌を上げたい
と思って、コチラにやって来るよう神さまに祈ったところ、何と、すぐ に猫が
やって来て、餌を頂きました。
祈るなら、ささいな事でも神さまは聞いてくださいます、と証しておられました。
祈りは高尚なもので、こんな日常生活の中で軽々しく用いるのはいかがなもの
か、という向きもあるでしょうが、しかし、答えるかどうかは神さまの 問題で
す。私たちは大胆に、祈りをもって主に求めることができるのです。
ヘブル人への手紙には「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをい
ただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近 づこう
ではありませんか」(4章16節)と書かれています。神さまは不可能を可能に
し、ご栄光を現してくださいます。
祈りを用いるかどうかは後になると大きな差となります。祈らないことは大き
な損失です。折にかなった助けを得るために、あなたもイエスさまを信 じ、祈
りましょう。(イスラエル北野)
—み声新聞2012年12月30日号(第708号)より転載—
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