2014年4月18日金曜日


天の故郷
故郷という言葉を聞くと、胸が恋しくなります。天の故郷といえばなおさらで
す。ヘブル人への手紙11章ではこのように書かれています。
 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れる
ことはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅 人であ
り寄留者であることを告白していたのです。(中略)もし出て来た故郷のことを
思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事 実、彼らは、
さらにすぐれた故郷にあこがれていたのです。(略)事実、神は彼らのために都
を用意しておられました(1316節)
 先月、3月19日に義父が天に召されました。ここ一月ばかりで、ばたばたと調
子を崩し、あれよという間に御国に帰ってゆきました。それは寂しい ですが、
夫と共に話すのは父が今喜んで天国にいるということです。父はイエス・キリス
トを救い主として告白し、信じていたので行き先は天国です。 この世とは比べ
ものにならないさらにすぐれた故郷に帰ることができたのです。こういうわけ
で、私たちはすべての点で心から喜んでいます。
 父の天国行きは、引っ越しのようなものです。離れはしましたが、天で元気に
過ごしている父を感じ続けることができます。そして、やがては天で私 たちは
再会を果たすでしょう。
 この恵みは、私の父に限ったものではありません。イエスさまを自分の救い主
として信じるなら、だれでも罪の赦しを受け永遠の命を頂き、天国に行 けま
す。そしてそこで私たちは永遠の再会を果たすのです。神さまは死すら祝福と変
えてくださいました。この御国の希望をどうかあなたも手にしてく ださい。
(イスラエル北野)

 み声新聞2014年4月20日号(第776号)より転載—

2014年4月7日月曜日


誇りと高ぶり
 私には7歳になるめいがいます。頭がよくてきれいで、伯母として先行きを楽
しみに思うのですが、弟はその子をしっかりと育てています。
 ある時、弟は彼女に言いました。「K、おまえは、確かに頭がよくてきれいか
も知れんが、世の中には、お前のような者は五万といることをわかって いるん
か」将来高ぶることのないようと、今から戒めているようです。
 高ぶりは、自分に酔い、自分は特別だと思い、誇ってやまないものです。とて
もいただけたものではありません。
 ガラテヤ人の手紙6章には「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そう
すれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対 して誇
れることではないでしょう」(4節) と書かれていますが本当にその通りで
す。誇ってみても、それはただ自分だけの誇りです。何の役にも立ちません。そ
ればかりか、神さまのご栄光を盗む罪の芽 にさえなりかねません。
 神さまはへりくだった人を選ばれます。へりくだるということは自分に死んで
いるということです。へりくだっていないと、神さまのある声は聞くこ とがで
きません。働きの根底に、自分を喜ばせたい、誇りたい、という思いを持ちなが
ら、なおかつ神さまに仕え、栄光を神さまにお返しするというこ とはできない
のです。
 神さまに謙遜を祈り求めましょう。神さまもまた、忍耐を持ってこれを助けて
くださいます。ヤコブの手紙にはこう書かれています。「神は、高ぶる 者を退
け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(4章6節)人はその誇りとするもの
によって人生が変わります。へりくだり、神さまの豊かな恵みを 受けて歩んで
いきましょう。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2014年4月13日号(第775号)より転載—

2014年4月5日土曜日


やもめ
 私の母は56歳にして夫に先立たれ、やもめとなりました。人生の山を越え、静
かに余生を送るはずでしたが、神さまの計画は異なりました。「この 者はこれ
からが人生の本番を迎える」と神さまは語られました。
 母はやもめとなって20年になります。この間、第二の人生の中で母は牧師とし
て立てられました。鳴門で生活している母は地下鉄が苦手で、上京す る際には
いつも迎えが必要でした。それが煩わしくて神さまに祈ると、母が地下鉄どころ
か世界にまで出て行くと語られました。
 そしてその通り、今日出発したアメリカの海外宣教チームにも加わり、渡米し
ていきました。帰りには国際便の飛行機から成田空港―羽田空港と移動 し、羽田
に一泊。翌朝一番の飛行機で徳島に帰り、すぐに礼拝のご奉仕を取り次ぎます。
こんな過密なスケジュールを76歳の母は1人でこなしている のです。しかも病
を持ちながら。確かにこんな人生が来ようとは思いもよりませんでした。
 詩篇8210節に、「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」
と書かれています。
 母がイエスさまから人一倍多くの、恵みと助け、癒やしを受けたのは、人一倍
イエスさまに求めたからだと思います。まず、求めることが奇跡の一歩 となり
ます。大きく口を開ける者は多く受けます。少ししか求めない者は、少ししか神
のみ業を見ません。
 やもめになったら、その望みは全能の父なる神以外にありません。ですから神
ご自身もまた、やもめに安らぎを与え、やもめの権利を守ってください ます。
神は真実です。私たちもまた、大きく口を開いて、神の恵みを受けましょう。
  (イスラエル北野)

 


み声新聞2014年4月6日号(第774号)より転載—

2014年3月25日火曜日


雪よりも白く
 北海道には、越冬キャベツなるものがあります。雪の中にキャベツを寝かせて
おいたものですが、どこの産地にもまして甘みが豊かです。
 また、雪の下におがくずをひいて、かぶと虫の幼虫を育てている所もありま
す。それらすべての営みを雪はすっぽりと覆い、一面の沈黙を守っていま す。
 さて、黙示録7章14節には次のような一節があります。「彼らは、大きな患難
から抜け出て来た者たちで、その衣を子羊の血で洗って、白くしたの です」と
いうものです。
 子羊とはイエスさまのことをさしています。イエスさまは、約二千年前にこの
世に来られた神のひとり子です。しかし罪に満ちたこの世は、救い主で あるこ
の方を死刑にするようポンテオ・ピラトに求め、イエスさまはカルバリの丘で2
人の罪人とともに死なれました。
 罪の無い方、キリストが死なれたのは、私たちの罪が贖われるためでした。旧
約時代に罪のための贖いとして羊がささげられていましたが、その羊に 代わっ
てただ一度、イエスさまは全人類の罪を負い、十字架でいわば「ほふられて」く
ださったのです。
 こういうわけで、今や神は、世にあるすべてのものがご自身の下に帰って来る
よう、救いの道を完成させてくださいました。
 私たちが持つ罪は無くなることはありませんが、神はイエスさまの贖いを通し
て私たちを見てくださるので、私たちはあたかも一度も罪を犯したこと の無い
者であるかのような祝福と恵みを頂きます。
 雪が大地を覆うように、キリストの血潮は私たちを覆いました。私たちは雪よ
りも白くされたのです。十字架は神との和解です。あなたも御父の元に 帰りま
しょう。  (イスラエル北野)

 

 


み声新聞2014年3月30日号(第773号)より転載—

2014年3月21日金曜日


信仰と忍耐
 神さまは時を支配しておられますが、特徴として遅れ気味になるようです。
 私たちは、リバイバルについて「もし遅くなってもそれを待て。それは必ず来
る。遅れることはない」(ハバクク書2章3節)という約束を頂いてい ます
が、それからもう30年にもなりました。
 また、イエスさまはラザロを死人の中からよみがえらせましたが、それは死ん
でから4日もたってからのことです。望み得ない状況をあえて選んで、 主はこ
の奇跡をあらわされたのです。
 ぺテロの手紙第二3章には「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は
一日のようです。主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約 束のこ
とを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたに対して忍耐深くあ
られるのです」と書かれています。千年が一日とは、神さまは何 とスケールの
大きいお方でしょう。
 私ごとになりますが、3月1日で自動車の車検が切れました。車検を通す費用
で、程度のよい中古車が買えるとアドバイスを受け、与えられるよう ずっと
祈っていました。ところが、待てど暮らせど必要が満たされません。ついに、3
月1日がやってきましたが何も起こりません。鉛を飲み込んだよ うな重さが胸
にのしかかってきました。
 スタートはここからでした。なお、主に望みをおいて祈り、条件の合う中古車
を一つ見つけました。時を同じくして必要が満たされ契約しました。
 信仰が試されると忍耐が生じます。また、すべてにおいて神の「時」があるの
です。私たちの時間では「もはやこれまで」でも神さまの時間では、ま だこれ
からです。信頼して粘り強く求めてゆきましょう。
(イスラエル北野)

 み声新聞2014年3月23日号(第772号)より転載—

2014年3月13日木曜日


再 会
 一つの時の節目にきたのでしょうか。昨年11月に天に召されたマーリン・キャ
ロザース氏と前後して、私たちの愛する兄弟姉妹や知人が相次いで天 に帰られ
ました。別離の悲しみはありますが、天国はとても近くなりました。
 聖書には、天国にいのちの水の川が流れていることが書かれています。マーリ
ンさんがあふれる喜びを持ってこの川に飛び込み、心ゆくまで楽しみ主 をたた
えている姿が思いに浮かびます。お悔やみなんてとんでもない、約束のみ国に入
れられたことをおめでとうございますと申し上げたいくらいで す。
 キリスト教は素晴らしい宗教です。なぜなら私たちの人生は死んで終わってし
まうのではなく、天で生きる、キリストの永遠の命を頂いているからで す。た
とえ死んでも、天と地に分かれても、やがては天で再会する、この恵みと希望が
あるのです。
 ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。「これらの人々はみな、信仰の人
々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした が、は
るかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白してい
たのです。(中略)彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の 故郷にあこが
れていたのです」(111316節)というものです。
 天の希望、再会の希望が私たちにはあります。書かれている通り、この地上で
の生涯は、永遠の中のほんの一部分です。天国こそ私たちのまことの故 郷であ
り、それは永遠に続きます。
 これから、天と地をつなぐ救いの御業が大きく展開してきます。リバイバルは
始まってきています。イエス・キリストを信じ、天国への切符を受け取 りま
しょう。
         (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年3月16日号(第771号)より転載—

2014年3月3日月曜日


ゲッセマネの祈り
 聖書には、多くの祈りが記されていますが、その中でもイエスさまが祈られた
ゲッセマネの祈りは特別です。
 イエスさまは、長老や祭司長たちに引き渡される夜、ゲッセマネの園で心血を
注いでこう祈られました。
 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。し
かし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、な さってく
ださい」(マタイの福音書2639節)汗が血のしずくのように落ち、御使いが現
れて、イエスさまを力づけました。
 杯というのは、イエスさまが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださると
いう救いのご計画のことです。
 イエスさまは、世に来られたご自分の使命が十字架の死と復活であることをご
存じでした。にもかかわらず、肉は弱いのです。わたしたち人類のすべ ての罪
を一身に背負い、たとえほんの片時であっても、父なる神さまが裁きによってみ
顔をかくされる、その十字架の死は、イエスさまにとって耐えが たい苦しみ
だったのです。
 それでもイエスさまは、私たちを愛するがゆえに、十字架の死を否まれず、そ
の力を父なる神に求められました。それが「わたしの願うようにではな く、あ
なたの御心のように、なさってください」という祈りとなったのです。
 神さまの御心はいつも最善です。とはいっても、肉ではそれを選べない時があ
ります。その時こそ、この「ゲッセマネの祈り」をささげましょう。わ たしの
願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください、と最後には
そう祈るのです。
 そうすれば、神さまは、必ずその祈りと願いを聞き入れ、あなたに御心の道を
選ばせ、最善の祝福を与えてくださいま す。 (イスラエル北野)

 

   
み声新聞2014年3月9日号(第770号)より転載—