美しいから愛されるのではない
大学時代の友人であるE子はぽっちゃりとした、愛らしい女子です。しかし、いただけないのは会うと必ず「私はブスだから。」と口にするのです。
彼女が美人かブスかを判定するものを私は持っていません。友人として、E子が特別に容姿が衰えているとか、あるいは絶世の美女であるとか、そういった思いもありません。八分咲きの桜のように、良い感じに花が開いているそんな桜の一枝のようでした。
ところが、彼女の意志は、私が思うよりはるかにはるかに強かったのです。ある日、学内で彼女に会いました。なんか変だな、どこか違うな、という意識を探ると、彼女の方から「私、整形したの」と言ってきました。まぶたを二つ。きれいな二重が印象に残ります。
何でも親御さんに、「大学卒業のお祝いに自動車免許の取得か美容整形かどちらでも一つ好きなものを選びなさい」と言われてE子は、即座に美容整形を選択したのです。とても喜んでいました。これが、自分への自信につながるものなら、決して高いものではないと私は思います。
人は、美しさに何を見ているのでしょう。サムエル記第一16章に興味深い記述があります。預言者サムエルはサウルに代わる王を探すため、ベツレヘムのエッサイの子のもとを訪ねました。長兄のエリアブを見てサムエルは「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし主はこう言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(6、7節)
エッサイは、7人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルは「主はこの者たちを選んではおられない」と言い、「子どもたちはこれで全部ですか」と尋ねたところ、「まだ末の息子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」と答え、サムエルは直ちに「人をやって、その子を連れて来なさい。」と言いました。
子どもの数にさえ入れ忘れられたその子の名は、ダビデです。血色の良い顔で、目が美しく、姿も立派でした。主が「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と仰せられ、サムエルが油を注ぐと、主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下りました。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」。これが神の選びの基準です。神の前にあって隠しおおせる物など何もなく、神は人の心の奥底を探られます。皆さんもどこかで、イエス・キリストがあなたを愛しておられるということを聞いたことはありませんか。カルバリの丘で十字架にかけられ槍(やり)を受けて死なれた主イエスは、私たちの罪の身代わりに死なれたのです。3日目には復活を遂げ、ご自身を信じる者に「永遠のいのち」を与え、救いを完成されました。
箴言31章に「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。」(30節)と書かれています。麗しさも、美しさも、やがては枯れるはかない存在です。しかし、神は1日で枯れてしまうこの一輪の花を愛するがゆえ、それを造られるのです。
美しいから愛されるのではありません。逆です。神に愛されているから、誰も見ていない一輪の百合にもこれほどまで美しく、神のみ前に完璧に装ってくださるのです。
「きょうはあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、良くしてくださらない訳がありましょうか。」(マタイの福音書6章30節)
MIKOE NEWSから転載」 2025年1月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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