私の願うようにではなく
イスラエルのオリーブ山にゲツセマネという園があります。イエスと弟子たちはよくそこで会合をしました。ルカの福音書22章に書かれているところでは、その日イエスはゲッセマネのいつもの場所に着いた時、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と告げ、ご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、祈り始められました。
それは今までにないような激しい祈りで、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけました。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちました。
ここまで激しく、一体何をイエスさまは祈られたのでしょうか。それは、イエスさまに与えられた使命である十字架の贖(あがな)いを全うすることであったと思います。既にこの時、イエスさまは、ご自分が十字架にかけられ、すべての人の罪を負い、殺される時が来たことを知っておられました。そして祈ったのです。「父よ。みこころならば、この杯(十字架での死)をわたしから取りのけてください」
これは偽らざる本心でしょう。十字架での贖いの死を遂げられるそのみ苦しみは、私たちには到底思いもつかないようなものだと思います。にもかかわらず、イエスさまが素晴らしいのはその後に祈った祈りです。
イエスさまは「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカの福音書22章42節)と祈られたのです。イエスさまはそれがどんな苦しみであるかをよく知っておられました。しかしイエスさまは、神のみこころを行うことが最善であることを、誰よりもご存じでした。それゆえ、自分の願いではなく、神のみこころがなることをより切に神に求められたのです。
多くの宗教は、自分の願いを果たしてくれることを期待して信心します。しかし、聖書の教え(キリスト教)は全く逆です。自分の利益のために神があるのではなく、神に仕えることによって「天の祝福」にあずかるのです。これが私たちへの報いであり、ここがキリスト教と他のご利益宗教との大きな違いです。
新生したクリスチャンがイエスのしもべになると、教会ではまず「自分に死ぬ」ということを学ぶようになります。これは、「わたしの願いではなく、みこころの…」という一節に通じるものです。自分が生きていては、自分の思いのままに動くので神さまのお役には立てません。でも、しばらくしてそこを越えたなら、いよいよ今度は「自分の十字架を負って主に従う」という次の歩みが始まります。十字架を負う人とは、自分の思いではなく神のみ思いを第一に行う人です。
ガラテヤ人への手紙6章5節に「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と書かれています。主は一人一人に応じた重荷(十字架)を用意しておられます。それを受け、神に仕えるなら、報いとして神は豊かな実を結ばせてくださいます。
人生の中で岐路に立つ時は、神のみこころを選ぶことができるようにと祈りましょう。主はあなたを助け、必ず最善の道を、神のみこころを選ばせてくださいます。
MIKOE NEWSから転載」 2025年1月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/