2025年1月29日水曜日

私の願うようにではなく

 イスラエルのオリーブ山にゲツセマネという園があります。イエスと弟子たちはよくそこで会合をしました。ルカの福音書22章に書かれているところでは、その日イエスはゲッセマネのいつもの場所に着いた時、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と告げ、ご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、祈り始められました。

 それは今までにないような激しい祈りで、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけました。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちました。

 ここまで激しく、一体何をイエスさまは祈られたのでしょうか。それは、イエスさまに与えられた使命である十字架の贖(あがな)いを全うすることであったと思います。既にこの時、イエスさまは、ご自分が十字架にかけられ、すべての人の罪を負い、殺される時が来たことを知っておられました。そして祈ったのです。「父よ。みこころならば、この杯(十字架での死)をわたしから取りのけてください」

 これは偽らざる本心でしょう。十字架での贖いの死を遂げられるそのみ苦しみは、私たちには到底思いもつかないようなものだと思います。にもかかわらず、イエスさまが素晴らしいのはその後に祈った祈りです。

 イエスさまは「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカの福音書22章42節)と祈られたのです。イエスさまはそれがどんな苦しみであるかをよく知っておられました。しかしイエスさまは、神のみこころを行うことが最善であることを、誰よりもご存じでした。それゆえ、自分の願いではなく、神のみこころがなることをより切に神に求められたのです。

 多くの宗教は、自分の願いを果たしてくれることを期待して信心します。しかし、聖書の教え(キリスト教)は全く逆です。自分の利益のために神があるのではなく、神に仕えることによって「天の祝福」にあずかるのです。これが私たちへの報いであり、ここがキリスト教と他のご利益宗教との大きな違いです。

 新生したクリスチャンがイエスのしもべになると、教会ではまず「自分に死ぬ」ということを学ぶようになります。これは、「わたしの願いではなく、みこころの…」という一節に通じるものです。自分が生きていては、自分の思いのままに動くので神さまのお役には立てません。でも、しばらくしてそこを越えたなら、いよいよ今度は「自分の十字架を負って主に従う」という次の歩みが始まります。十字架を負う人とは、自分の思いではなく神のみ思いを第一に行う人です。

 ガラテヤ人への手紙6章5節に「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と書かれています。主は一人一人に応じた重荷(十字架)を用意しておられます。それを受け、神に仕えるなら、報いとして神は豊かな実を結ばせてくださいます。

 人生の中で岐路に立つ時は、神のみこころを選ぶことができるようにと祈りましょう。主はあなたを助け、必ず最善の道を、神のみこころを選ばせてくださいます。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年1月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月22日水曜日

 親の人生、子の人生

 イスラエルのお母さん(ジューイッシュマザー)は教育熱心なことで有名です。子どもの性質を良く知り、その子の能力が発揮される所へと導きます。また、「孟母三遷」と言って、孟子の母は、家庭環境、友人関係、教育機関などに心を用い、納得する所が見つかるまで、3度も引っ越しをしたと言います。子どものために良い環境を用意する、これがお母さんの役割だと言われています。

 ところが、これには陥りやすいわながあります。お母さんが出過ぎると悲劇が起こるのです。ある時テレビでチアリーダーを目指す女の子とそのお母さんのドキュメンタリーが放映されていました。チアリーダー、チアガールは日本ではそうそう見かけませんが、アメリカでは、女の子の憧れの的です。

 その子も、チアリーダーになりたいという夢を持っていました。その子のお母さんも何とかして娘をチアリーダーにしたいと苦心していました。食事制限から、練習、またチアリーダーになるための学校内での募集をチェックし、票を入れてくれるよう、いろいろなプレゼントを配りました。

 ある時、ようやくチアリーダーに欠員が出ました。そこで、入ろうとするのですが、ライバルのお母さんがさりげなくコーチに献金額を伝えたところ、彼女ではなく、ライバルだった子に、その役が回っていきました。「結局は金だ」、と強く悟ったお母さんは、お金持ちのおじいさんと再婚します。でも、そこでしたことは相変わらず娘をチアリーダーにするそのことばかりで、夫に愛を示すこともなく、お金を狙った政略結婚でしかありませんでした。

 以心伝心で、夫も娘もそのことが分かります。母に傷ついて、ついに娘が「もう私はチアリーダーにならない」そう言って家を出ました。どんなことがあっても、チアリーダーになりたい一心で、彼女は忍耐して頑張ってきたのです。しかし、ついにそれを投げ捨ててしまいました。

 お母さんは自分がしたことが分からないでしょう。チアリーダーのビジョンは娘のものですが、それはお母さん自身のビジョンでもあったのです。

 私の友人ですが、幼稚園で働きたいと思っていました。しかし、母親は、それじゃあ食べていけないから看護師になりなさいと強く勧め、手続きをしました。その子は、「自分の人生なのに、なぜ人生を自分で決めちゃぁいけないの」と涙ながらに訴えました。

 母親は、「私の判断が正しいの。私の言う通りやってゆくなら必ず成功者になる。幸せになるはずだ。だから私の言った通りにしなさい。」このようにして、子どもから選択の機会を取り上げてしまうことがあるのです。良かれと思っての親心でしょう。しかし、人生は自分の道を自分の足で歩いて行く道のりです。時には忍耐が必要ですが、子どもが自分で答えを出すまで待っていてあげる、これもまた愛なのではないでしょうか。事実、神さまはそうしてくださったのではありませんか。罪人(つみびと)である私たちは、良かれと思って子どもの人生を自分が決めてしまう(奪ってしまう)ということをしがちなのです。

 親という者は、子どもの人生にいろんな期待や望みを持ちやすい者です。そして、それが高じて、過干渉になることがよくあります。これには気をつけましょう。子どもの人生は、あくまでも子どものものなのです。

 聖書にはこう書かれています。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16章3節)

 子どもの人生を神に委ね切るなら、神さまがその子のために用意しておられる最善の人生に必ず導いてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2025年1月22日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月15日水曜日

 伝言ゲーム

 伝言ゲームとはグループ内で人から人へ言葉(メッセージ)を順に伝え、正確に伝わらない様子を楽しむ遊びです。初めの言葉と終わりの言葉は、最後には大きく違ってしまうので笑いが絶えません。

 ことばは、神の創造の中でも特別な役割を果たしています。しかし言葉は、ともすれば違う言葉にすり替わりやすい、ぶれやすいという特徴もあります。そして、往々にしてそこがサタンの狙い目なのです。創世記で、神はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と語られました。(2章)

 アダムは、それを大切なこととして女(妻エバ)に口頭で伝えたことでしょう。しかし、そこに蛇がやって来ました。狡猾(こうかつ)な蛇はアダムを避け、まず女に言います。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」(3章)

 早くも言葉が変わっています。神は、「食べてよい」と言いましたが、蛇は「食べてはならない」と、逆を言いました。さらに神が語られたことに疑問を持たせ、「ほんとうに言われたのですか」と問うています。

 女は蛇に言いました。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

 ここでも、早くも「木」が「木の実」になり、「善悪の知識の木」からは取って食べてはならない、と神が語ったにもかかわらず、「園の中央にある木の実」と言い間違え、食べてはならない、触れてもいけない、と神のことばに付け加え、さらに「死ぬ」と告げられたにもかかわらず、それを「死ぬといけないからだ」と都合良く言い換えています。

 その結果は、皆さんご存じの通り、ふたりして禁断の実を食べ、アダムとエバはエデンの園を追われ、人類に死が入りました。

 神のことばは、その通り成就するのです。一言一句、必ず語られた通り成就します。そして、サタンは、神のことばを人から奪い、惑わすことをしています。神のことばはいのち、また創造ですが、サタンがもたらすものは「死」なのです。神のことばを奪われないようしっかりと握り、正確にことばの内に留まりましょう。そうすれば、神のことばの成就と具体的な解決を見るのです。

 初めに聞いたことばを最後まで持ち続けましょう。確かに神のことばに留まり続けるのには戦いがあります。しかし、神を恐れること、受けたことばを正確に捉え、神のことばに留まること、常にここに立ち戻りましょう。蛇はうそつきです。語る言葉はすべて偽りです。しかし、古い蛇は私たちの罪と私たちの心を捉える言葉をよく知っています。ですから巧みな言葉をもってだますのです。

 それゆえ罪から離れ、へりくだって神さまに助けていただきましょう。決して自分でできるなどと思わず、神に頼りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2025年1月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月9日木曜日

 ありがとう

 私の父はB型肝炎で55歳の若さで天に帰りました。長女として父に寄り添い、その最晩年を家族と共に過ごせたこと、また闘病における折々の神さまのご配慮を頂いて喜びをもって父を天に送ることは、今思い返しても本当に神さまに感謝でした。

 父の闘病生活の中には多くの祝福がありましたが、一番大きな祝福は父が受洗にあずかったことです。はっきりとした意識をもって信仰を示し、イエス・キリストのしもべとなりました。その病は残念ながら死に至る病で、どんなに祈っても病気は進行する一方でした。いやされることを本人も家族も必死に願いました。けれども、こればかりは神さまの領域で、私たちにはあずかり知れないものなのです。

 ヨハネの福音書11章4節から「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」ということばを頂き、栄光はうれしいが、「死で終わる」という一節が気になりました。やはり父は死ななければならないのでしょうか、と何度も主にお尋ねしました。

 ところがある日、父は密かに私に言いました。その日病院で自死があり、父のベッドの横を風圧とともに人の影が過ぎていったと。ここは生きるか死ぬかの戦いの場所。しかし、お父さんは最後まで自分のよわいを全うする。そればかりか、ここから天に帰ってもいいとさえ思っているんだ、と。

 このあたりから父は変わっていきました。笑顔を絶やさないようになりました。いつも喜びをたたえていてにこにこしています。転移の激痛は、いっそ殺してくれというほどの痛みですが、それにも一人でじっと耐えていました。こんなあんばいですから医師や看護師さんにも愛され、ちょっとしたことにも「ありがとう」というのが父の口癖になっていきました。

 私も入院の経験があります。入院するのはそれなりに病んでいるのですから、自分にできない所は人に世話にならざるを得ません。そうした時は、口にこそ出しませんが「申し訳ない。ありがとう。」という思いで、いっぱいになるのです。ありがとう、ありがとう。と心の中で何度お礼を言ったでしょう。

 4月19日。桜が満開になった頃、父の召天が近づきました。召される20分ほど前、父は渾身(こんしん)の力を振り絞って、私たちが差し出した色紙に何事かを記しました。乱れた文字で私たちには読めませんでした。ところが、何年か後に父の病友が、「きっと、ご主人は有難うと書いているはずだ。だからもう一度見てほしい」と連絡が来て、私たちはもう一度、色紙を見ました。するとその通り大きな字で「有難う」と書かれていました。約束通り主は、この病を死で終わるだけのものではなく、神の栄光の現れとしてくださいました。

 父の生涯の最後の言葉は「ありがとう」でした。幸せな人生であったと思います。神に感謝します。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年1月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年1月2日木曜日

美しいから愛されるのではない

 大学時代の友人であるE子はぽっちゃりとした、愛らしい女子です。しかし、いただけないのは会うと必ず「私はブスだから。」と口にするのです。

 彼女が美人かブスかを判定するものを私は持っていません。友人として、E子が特別に容姿が衰えているとか、あるいは絶世の美女であるとか、そういった思いもありません。八分咲きの桜のように、良い感じに花が開いているそんな桜の一枝のようでした。

 ところが、彼女の意志は、私が思うよりはるかにはるかに強かったのです。ある日、学内で彼女に会いました。なんか変だな、どこか違うな、という意識を探ると、彼女の方から「私、整形したの」と言ってきました。まぶたを二つ。きれいな二重が印象に残ります。

 何でも親御さんに、「大学卒業のお祝いに自動車免許の取得か美容整形かどちらでも一つ好きなものを選びなさい」と言われてE子は、即座に美容整形を選択したのです。とても喜んでいました。これが、自分への自信につながるものなら、決して高いものではないと私は思います。

 人は、美しさに何を見ているのでしょう。サムエル記第一16章に興味深い記述があります。預言者サムエルはサウルに代わる王を探すため、ベツレヘムのエッサイの子のもとを訪ねました。長兄のエリアブを見てサムエルは「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし主はこう言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(6、7節)

 エッサイは、7人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルは「主はこの者たちを選んではおられない」と言い、「子どもたちはこれで全部ですか」と尋ねたところ、「まだ末の息子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」と答え、サムエルは直ちに「人をやって、その子を連れて来なさい。」と言いました。

 子どもの数にさえ入れ忘れられたその子の名は、ダビデです。血色の良い顔で、目が美しく、姿も立派でした。主が「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と仰せられ、サムエルが油を注ぐと、主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下りました。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る」。これが神の選びの基準です。神の前にあって隠しおおせる物など何もなく、神は人の心の奥底を探られます。皆さんもどこかで、イエス・キリストがあなたを愛しておられるということを聞いたことはありませんか。カルバリの丘で十字架にかけられ槍(やり)を受けて死なれた主イエスは、私たちの罪の身代わりに死なれたのです。3日目には復活を遂げ、ご自身を信じる者に「永遠のいのち」を与え、救いを完成されました。

 箴言31章に「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。」(30節)と書かれています。麗しさも、美しさも、やがては枯れるはかない存在です。しかし、神は1日で枯れてしまうこの一輪の花を愛するがゆえ、それを造られるのです。

 美しいから愛されるのではありません。逆です。神に愛されているから、誰も見ていない一輪の百合にもこれほどまで美しく、神のみ前に完璧に装ってくださるのです。

「きょうはあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、良くしてくださらない訳がありましょうか。」(マタイの福音書6章30節)

 MIKOE NEWSから転載」 2025年1月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/