2022年9月25日日曜日

彼女の人生・ヨブの人生 

 世の中には人の数だけ人生があります。生きている限り、誰もが時代や社会の影響を受けつつ自分の人生を送っています。良い人生、悪い人生と、評価は人それぞれです。けれども、推定9割ほどの人は、波乱万丈であるにせよ、それなりに平凡な人生を送っているように思います。では、残る人はどうなのでしょう。社会からも忘れられかねないこの1割弱の人に、今回は目を向けていきたいのです。

 精神を病んでいる彼女は、その1割弱に属する人でした。医師の治療を受けていました。しかし、これといった効き目はなく、彼女は、とても苦しみました。病苦もさることながら、自分がなぜこのようなつらい目に合うのだろう、ということに対する神からの応答がないことが、彼女をひどく苛め(さいなめ)させました。

 それは、ヨブの苦しみと重なるものがあります。ヨブは受けた試練を、せめて誰かと分かち合いたいと願いました。でも、ヨブを理解してくれる友は一人もいませんでした。むしろ話せば話すほど、友の無理解が心の痛みとなり、なお一層、孤独が募りました。そして、追い打ちを掛けるように、休む間もない病の痛みや苦しみがあります。全身を悪性の腫物で打たれたヨブは、罪人がするようにちりの中に身を置き、土器のかけらで身をかきました。

 もちろん、ヨブは神に叫びました。でも神は沈黙を守られたのです。多くの人が、ヨブがこうなったのはヨブが罪を犯したからだ、と言いました。皆の知識を総動員しても出せる結論はそれしかなかったのです。あなたがたは、空しい慰め手だとヨブは言います。その通りです。人は経験を土台にして物事を計ります。ですから経験していないことが起きると、しばしば判断を誤ります。ヨブに許された試練は、ヨブが罪を犯した結果ではありませんでした。神ご自身がその優れた英知によって定められたことであり、今まで人が経験したことのないものであったのです。友人たちはそのことを悟ることができなかったので、ヨブへの励ましはいつしかヨブへの批判や説教に変わっていきました。

 先程取り上げた彼女もまた、ヨブと同様1割弱に属する人間なのです。彼女の苦しみもまた、試練を分かち合う人がいないこと、神が答えてくださらないこと、そして襲い来る病の疼痛(とうつう)です。その苦しみはやがて宝石のように輝きます。でも今は耐え忍ぶ時です。

 イザヤ書に「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(535節)という一文があります。彼とはイエスさまのことで、イエスさまが苦しまれた、そのみ苦しみと引き換えて、私たちへのいやしがあるというのが聖書の述べるところです。

 彼女の魂は、深い淵に置かれていました。その深い淵から神に向かって呼び求め、あるいは呻き、あるいは願い、心を注ぎ出して、祈りが捧げられました。そしてついに、大きな神の栄光を、勝利を見たのです。

 いやしの土台は、他でもないこの主イエス・キリストの十字架にあります。主が受けられたみ苦しみに引き換えて、私たちはいやされるのです。主はすべての病を担われました。苦しみはやがて、必ず大きな喜びに変わります。祈りを捧げて主の時を待ち望みましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年9月25日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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