2022年9月11日日曜日

信仰と忍耐

 私たちの信仰が実を結ぶまで、神はさまざまな訓練を私たちに与えられます。訓練にはいろいろありますが、誰もが通る訓練として、「忍耐」が挙げられます。

 私は、18歳の時に救われ、程なくして献身しました。今までの世にある人生から、神を中心とした人生への180度の切り替えが一気にやって来て、その結果、いろいろな面でバランスを崩し、病気になりました。郷里に帰り、病院に入院したので、クリスマスの受洗は延期となり、日曜ごとの礼拝出席もできなくなったので、とうとう神さまの愛を疑い始めました。受洗も礼拝出席も神のみこころであるのに、神はなぜ、私を立たせてくださらないのかと、神さまの真意が分からず悲しくてなりませんでした。

 ちょうどそれは、ダムに溜まった水が警戒水域いっぱいにまで満ちた状態でした。あと1つでも何らかのことが加わったなら、心のダムが決壊するぎりぎりの状態でした。一日一日、一瞬一瞬、ただこの杯が退けられるよう、それだけを願って、ひたすら待ちました。顧みれば、かれこれ40年も昔のことになります。 ヤコブの手紙13節には「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい」。こう書かれています。

 忍耐という試練は、できれば避けたいものであり、好き好んで陥る訓練ではありません。それは半ば強制されて、そこに捨て置かれるのです。この、捨て置かれるというのが忍耐の特徴です。心の内にあるものが探られるため、待たされ、また試され、忍耐を生じさせられるのです。

 また、へブル人への手紙10章にも次のように書かれています。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(3536節)

 私たちが、試練にあっても信仰の確信を捨てることがないようにと、ここでも忍耐が奨励されています。なぜなら、私たちの上に置かれた信仰の確信は、必ず豊かな実を結び、成就するものであるからです。けれどもそこには信仰が必要です。そして、それには忍耐が求められます。

 しかし、やがて時が満ち、神のことばが実現すれば、私たちに大きな報いをもたらします。これらのことを覚え、しっかりと信仰に立って行きましょう。義人は信仰によって生きると聖書には書かれています。 

MIKOE NEWSから転載」 2022年9月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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