2022年5月9日月曜日

リバイバル

 あまり知られていませんが、日本は多くのキリスト教の殉教者を出した国です。生かさず殺さずを旨とし、本人もまた見ている者も、ともに棄教させようとあの手この手で残忍な責め苦が与えられました。少し前に遠藤周作の『沈黙』が映画化され、そこで撮られた迫害の残忍さが、世界中の話題となりました。

 信仰を持った当初、私は九州を中心にいろんな殉教地を訪ねまた殉教を調べました。調べれば調べるほど、とても耐えられないと震えあがりました。老人や乳飲み子にも容赦なく迫害の手は伸びていて、サタンの関与を考えないと、とても説明がつかないほど残虐な責め苦が編み出され、多くの者が迫害の中で殉教の死を遂げていきました。

しかし、迫害殉教は日本に限ったものではありません。現代でもイスラム社会では、キリストを信じる者は死刑に処せられます。まず家族の長が責任を持ってその者を殺さなければならないと法に定められています。彼らにとって信仰に入ることは命がけの選択です。というのも、クリスチャンになれば自分だけではなく家族の命までも危険にさらすことになるからです。情に訴え命を的にする迫害が今も続いています。

キリストの名のゆえに苦しみを受け殉教したクリスチャンは世界中にいます。その殉教の最たるものは、ローマで起こった皇帝ネロによる迫害でしょう。ネロは、ローマ市民が見る中、見世物として、コロッセオでクリスチャンたちを引き出し、腹の空いたライオンに彼らを食らわせ殺してしまいました。使徒パウロもまたこの時に殉教したと言われています。多くの者が無抵抗のまま殉教して行きました。

伝承によると、人々の去ったコロッセオで、ネロが死体を検めに来たといいます。そこでネロはひどく当惑します。というのも、顔が残った死体があちこちにあり、その顔が穏やかで喜んでいるように見えるのです。それも一人や二人ではありません。死を前にした苦しみや恐れなど微塵も感じさせません。彼らは何を見て喜んでいたのだろうか、ネロは疑問を感じたと言います。殉教者たちはこれから行こうとする天を、主イエスを、見ていたのです。

今、コロッセオには一本、何の飾りもない鉄の十字架が建っています。当時を証しするものは今はこの十字架だけです。ここから多くの者が天に帰って行きました。ネロによる迫害の歴史は刻まれましたが、この後歴史は大きく反転し、AD392年にテオドシウス帝によってキリスト教はローマの国教に定められました。

私たちの間では、殉教者の血はリバイバルの種だと言われています。ローマで流された殉教者の血が、キリスト教をローマの国教とする大逆転を生みました。日本にも、やがて時が来て大逆転が起こるでしょう。流された殉教者の血はリバイバルの種です。時が来れば芽が出、広がり、主が来られるその道を用意するものとなるでしょう。

私たちは世の終わりに生きるクリスチャンです。日本のリバイバルは世界を巻き込む後の雨リバイバルだと言われています。私たちには四十年来の約束の言葉があります。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク書23節)というのがそれです。

 いよいよ時が満ちてきました。

MIKOE NEWSから転載」 2022年5月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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