2022年2月13日日曜日

神の至上命令

 若い頃、主に対する熱心さから、手当たり次第に福音を語りました。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われると聖書に書いているので(ローマ人の手紙109節)、友人知人を捉えてはイエスさまを信じるよう粘りました。あまりにもしつこいので、渋々受け入れてくれましたが、結果的には反発を買ったり、教会に結びつかなかったりで、それでも祈って心にイエスさまをお迎えしたのだから意味があるとは信じつつも、次第にそのような伝道はしなくなりました。

 しかし、それは霊的な眠りをもたらしたかもしれません。相手が不快な顔をするのを恐れて、あえて語ることをしなくなった私は、塩気が抜けた塩のようでした。

 以前にもお分ちしましたが、あるご夫婦がいました。ご主人は癌で余命いくばくもない状況で、ある時クリスチャンの奥さんに言ったそうです。「俺はもう長くはないから、今のうちに言っておくべきことがあったら言ってくれ」それを聞いて奥さんは、ちょっと考えてから、あの旅行は楽しかったねとか、良かったねとか話したそうです。ご主人は「そんなことか」といってその場は終わりました。

 やがてご主人は亡くなり、落ち着くと、奥さんはある時はたと気付きました。私は夫に福音を伝えていなかった。これこそ、夫に言うべきことであった。あの時がそのチャンスだったのだ、とはっきり分かったそうです。その悔いは筆舌に尽くしがたいものであると思います。

 私も同様な苦みを経験したことがあります。ある時私は、乳母のご長男さんご夫婦を訪ねました。定年退職をして悠々自適に暮らしているお二人ですが一向に幸せそうでないのです。話は弾まず、早々にいとまを告げました。

 それからしばらくして、ご長男さんが、手術のできない所にある癌に罹患していることを風の便りに聞きました。聞けば奥さんも糖尿病です。あの時、お二人はまさにイエスさまの助けを必要としていたのです。程なくして長男さんは亡くなり、四十九日を終えると奥さんも亡くなりました。

 あの時、お二人にイエス・キリストが必要であることに私は気づきませんでした。鈍い者です。お二人が救われる機会であったのにそれがまるで見えてなかったのです。嫌われても、疎遠にされてもイエス・キリストを救い主として伝えるという使命に堅く立つべきであったと後悔しました。

 神さまは、すべてのものを用意して、あとは私たちに委ねておいでです。救いは既に神によって完成しており、あとは宣べ伝えるだけです。もちろん、その人が救われるかどうかは神の働きです。しかし、その福音を語るのは、私たちの働きです。そしてそれを主は御使いたちにではなく、私たち人に任せてくださったのです。

 テモテへの手紙第二42節にはこう書いてあります。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」福音宣教は、神の至上命令です。このことを知り、いつでも語れるよう備えていきましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年2月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

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