2021年7月18日日曜日

イエスさまのいやし

  病人には、多かれ少なかれ心の屈折というものがつきものです。特に病気が長引くと、その傾向は強くなります。誰も好き好んで病気になったのではありません。誰が悪い訳でもないのに同情者は減っていき、心無い言葉に傷つくことも多々あります。

 ヨハネの福音書9章は、生まれつきの盲人をイエスがいされたことを取り上げている箇所として有名です。盲人を見て弟子たちはあからさまにこう言いました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」歯に衣を着せぬ一言です。でも当時は誰もが病気は罪の結果として起こるものだと考えていたのです。

 それに対してイエスさまは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」とお答えになりました。これは画期的なことばです。病は誰のせいでもない、それは神のご栄光の現れのためにあるのだとおっしゃったのです。そして、イエスさまは地面につばきをして泥を作り、それを盲人の目に塗って、シロアムの池で洗いなさいと語られました。盲人がイエスさまのおことば通りにしたところ、彼は見えるようになりました。

 いったいどういう訳でいやしが起こるのでしょうか。もちろんそれはイエスさまが十字架によって私たちの罪や咎(とが)、さらに病を負って死んでくださったからに他なりません。そこには復活の力が働いています。

 ある方々は、イエス・キリストによるいやしは、後に私たちが受ける復活のからだの先取りであると論じています。私たちは主イエスを救い主として信じた時に永遠のいのちを頂きました。そしてそればかりではなく、私たちにはもはや死ぬことのない御霊のからだ、復活のからだが用意されているのです。これはイエスにおいて成就しており、この御霊の体は、朽ちることも病むこともありません。そして、現代にあって働くイエスさまのいやしは、この御霊のからだを先取りして頂くものであるといわれているのです。

 イエスさまはまたご自分のことを医者だと語られました。深い慰めをもって私たちにご愛を注ぎ、私たちを建て上げてくださいます。あなたもまた、イエスを主とお呼びし、ご愛の内に帰りましょう。私たちの人生に困難や病が許されるのは、そこに神のみわざが現されるためであるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年7月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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