なせ試練が許されるのでしょう
この文章を読まれる皆さんの中には、今まさに試錬の只中にいるという人がおられると思います。試練は、誰にでも一度ならず訪れるもので、その時には本当に苦しくてなりません。皆一様に、どうして神はこんなことを許されるのか、と悩みます。しかも、そういう時には神は往々にして沈黙を守られるので、私たちは悩みの炉で溶かされまた試されます。私たちは神に愛されていないのでしょうか。
このことに関しては、へブル人への手紙12章に次のような引用があります。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(5、6節)。
「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、誰でも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです」(7、8節)。
これが答えです。愛されていないのではなく、愛されているからこそ、神さまは私たちに試練を許されるのです。それゆえ、私たちに訪れる試練はそのまま、私たちが神の子であることの証明です。確かに神のお取り扱いは厳しいです。しかし、試練が許されるのは、申命記8章にあるように「…それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」のです(16節)。
また、ヨハネの福音書15章2節でも、イエスさまは「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と言われました。私たちはいわば原石で、神は原石である私たちを磨き上げ、ご自身に役立つものとして建て上げてくださいます。同様に刈り込みも、実を豊かに結ばせるために主がなしてくださる祝福のみ手です。
コリント人への手紙10章13節には「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」と書かれています。
「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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