2021年3月27日土曜日

0cmのハードル

  ルカの福音書15章は、「放蕩息子のたとえ」として有名な箇所です。ある人に兄と弟がいました。兄は出来が良かったのですが、弟は放蕩息子でした。父に財産の分け前を要求して、得るや否や遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして没落してしまいました。そこに大飢饉(ききん)が訪れ、世話をする豚の食べる餌で自分の空腹を満たしたいと願う程、食うに困ったのです。冷静になった弟は、父の所に帰る決意をします。「もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」こう言うつもりでした。

 ところが父は、まだ遠かったにもかかわらず、彼を見つけ、走り寄って彼を抱き、口づけをしました。そして、着物を着せ、指輪をはめさせ、靴を履かせました。受け入れてくださったのです。父は肥えた子牛をほふって祝宴を始めました。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」というのがその理由です。

 兄息子は畑に出ていました。家に帰ってきたら祝宴の音がします。いったい何事かと聞いて、弟のために父が祝宴を開いたと知ると、怒って家に入ろうともしませんでした。「私には友だちと楽しめと子山羊一匹下さったことがありません。それなのに遊女におぼれて身代を食いつぶし帰って来たこの息子のためには肥えた子牛をほふらせるのですか」父がなだめても兄は聞く耳を持ちません。

 同じようなことが、マタイの福音書20章に挙げられています。早朝、自分のぶどう園に働きに行く労務者を雇いに行った主人は、一日1デナリの約束をかわして彼らを園に遣りました。その後9時ごろに出かけると、別の人たちが何もしないで市場にいたので、相当のものを挙げるから、と言いぶどう園に送りました。12時ころと3時ころにも同様に雇って園に行かせました。5時に出かけてみると一日中誰も雇ってくれないという人たちがいて、彼らもぶどう園にやりました。

 夕方になり、主人は、最後の人から順に賃金を払ってやりなさいといいます。そこで5時からの人が来てそれぞれ1デナリずつもらいました。最初にぶどう園に来た者たちは、もっと多くもらえると思いましたが彼らも1デナリでした。

 彼らは文句をつけました。しかし主人は「不当なことをしていない。あなたとは1デナリの約束でなかったか。自分の分を取って帰りなさい。私が気前がいいのでねたましく思うのか」と言います。ここには放蕩息子の兄の憤りと共通したものを感じます。

 なぜ、聖書はこのようなこと取り上げているのでしょうか。それは救いのハードルがとことん低いことを知らしめるためだと私は思います。

 神さまと私たちの関係はいくつもあります。しもべの道、十字架の道、献身の道などです。これらの道は厳しく誰にでも開かれるものではありません。しかし、救いの道だけは無条件に開かれているのです。ただ、信じるだけでいい、イエスが主である、それだけでいいのです。救いのハードルは実はゼロセンチで、誰一人として救いに漏れる人はいないのです。

 世でろくなことをしなかった人も、何かを残すことができた人も、救いに限れば、神の前には等しく罪人です。福音は人を選びません。誰であれ、悔い改めるならどんな罪でも赦され、神の子とされます。これが、神の義です。1デナリの約束です。イエスを救い主として信じるならただそれだけで救われます。あなたもまた天国に行くことができます。主イエスを信じ救いを受けましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年3月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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