2018年12月5日水曜日

目に見えるもの見えないもの

 コリント人への手紙第二4章には、次のような一文が寄せられています。「私たちは、見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(18節)というのがそれです。
 目には見えないけれど、確かに実体があるということを学んだのは小学生の頃です。理科の実験で「空気」を学習しました。1枚のポリ袋を取り、袋を宙に泳がすと、袋は大きく膨らみました。これが空気というものであると聞かされて、初めて、目に見えないものにも見えるもの同様に実体があることを知りました。存在は二つあって、目に見えるものと目に見えないものとに分かれているのです。
 また、長年救急医療に携わっているお医者さんが興味深いことを語っておられました。死んでしまった方々は、ここにいる、体がないだけで、ここにいるって僕は常に感じています。真実かどうかは別として、ここにもまた、目に見えるものと目に見えないものについての関係を意識させられています。目に見えないからといって何もない訳ではないのです。むしろ目に見える以上の事が、目に見えない事にはあるようです。
 神さまもまた、目に見えないお方です。愛も、喜びも、いのちも、目で見ることはできません。しかし、それが確かにあるものであることは皆さんもご存じのことです。見えるものは朽ちます。金銀宝石さえもこの世のものであって、やがては廃れます。それに引き換え、見えないものは永続するものなのです。
 神さまの愛が、目で見える形となって現されたのが、イエスさまであり、その十字架による贖(あがな)いです。朽ちることのないこの福音をあなたもまた信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月9日号(第1019号)より転載—

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