2018年12月12日水曜日

罪の赦し

 年末になると東京湾の大掃除をするそうです。ダイバーが潜るのですが、沈んでいるゴミは多種多様で、自動車まであったそうです。毎年信じられないような物が上がってくると言います。
 ある牧師が、この事を説教で取り上げたことがあります。その後、1人のご婦人が牧師の所にやってきました。婦人は罪が赦されたということがどうしても信じられないというのです。私の犯してきた罪は大きく、やすやすと赦されるものではないのです、と訴えました。
 考えようによっては、確かに罪には大きな罪があり、また小さな罪があります。同じ罪でも殺人と盗みを比べると、それを同レベルで論じるには私も抵抗を感じます。
 しかし、キリストの教えでは、罪は(神の前に)あるかないのか、どちらかであるのです。大きい小さいではありません。どんなにささいな事であっても罪があれば、神の手はとどまり、どんな大罪を犯していても真に悔い改めるなら等しく罪の問題は不問とされるのです。これが、神が恐れられるゆえんです。
 神は、罪を赦すことがおできになります。どんな罪でも、たとえ大罪であっても、全ての罪はキリスト・イエスの十字架の贖(あがな)いによって、今や神の前に赦されない罪は一つもありません。
 先ほどの牧師は、ご婦人に言いました。大きい自動車も小さい空き缶も、等しく海の中に消えました。大きさが問題なのではないのです。どんな罪であっても告白すれば赦されるのです。
 ヨハネの手紙第一にもこう書かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1章9節)イエスさまを信じて罪の赦しを得ましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月16日号(第1020号)より転載—

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