2025年2月19日水曜日

ほめ殺し

 独身時代、父とよく「ちゃんこ鍋」を食べに出かけました。かつてお相撲さんであったご主人と奥さまが切り盛りしている店です。驚いたのが、その接客ぶりです。「まあまあ社長、もう一杯」「先生。先生。どうぞどうぞ」と勧め、実に見事に社長や先生と心をくすぐる言葉遣いをしています。さすが両国。よいしょする言葉がはんぱじゃないなあと、妙に感心した覚えがあります。

 その時ではなかったのですが、父に散々聞かされたのは「口のうまい者には気をつけろ」という言葉でした。「今まで自分が見てきた中で、口の上手いやつほど当てにならない。耳触りの良いことを言う者には腹にたくらみがあると思った方がいい。」今では私も、私なりに、このアドバイスには一理あると思っています。

 私は、何かを考える時、イエスさまならどうなされるだろうか、というふうに考えるようにしています。イエスさまは、人として世に来られましたが、神であられるのです。にもかかわらず、非常に謙遜であられました。ご存じの通り、主はご自分の肉において、十字架でいのちを捨て、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与え、救いをもたらしてくださったのです。イエスさまの故に、今はもう私たちは死さえ恐れる必要がなくなりました。

 これほど大きな事をしてくださった方ですが、イエスさまは一貫して謙遜であり、絶えず神に感謝をささげ、常に栄光を神に帰しておられました。人々からどんなに痛められ辱められても、父なる神に信頼し、呪いの言葉の一つさえも口にせず耐え忍ばれました。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(ヨハネの福音書18章11節)。これが十字架の患難を前にしたイエスさまのおことばでした。

 民衆はこのイエスさまに大いに期待しました。イエスさまは、病人や悪霊につかれた者をいやし解放し、また、5つのパンと2匹の魚で7千人の群衆を満腹させました。人気絶頂であったのです。そして、イエスさまは、そのすべての栄光を神に帰されました。常に父なる神と共に歩まれたのです。

 しかし、そのイエスさまがみ父から離れ、罪人の一人として数えられる時が来ました。何の罪もないイエスさまですが、この時は、御身に人類のすべての罪を負われ、十字架上で神のさばきを受け、死なれました。一時(いっとき)とはいえ、み父から離れ罪人となられた、これがどれほどのみ苦しみか、私には想像さえつきません。しかし、これは世界の歴史の中で最も大切なことです。神の愛は、この十字架の死(贖(あがな)い)と3日目の復活によって、人を完全に救うものとなりました。最大級のご栄光を神に帰しましょう。

 しかし世では、神さまが働かれるように、サタンもまた働くことを忘れてはなりません。例えるなら、先程のちゃんこやの女将さんのように、またはそれ以上に、サタンは、耳触りの良い言葉であなたの心をくすぐります。「あなたのような神の器は見たことがありません。あなたの説教は何と素晴らしいのでしょう」とか、「あなたこそ神の人です。こんな所にいないでもっと人前に出るべきでしょう」などと言ってほめ殺しにし、さらに、「ひれ伏して私を拝むならこの世のすべてをあなたにあげます」と取引までも持ち出し、「さあ、あなたの記念碑を建ててあなたのしたことを後世に伝えましょう」などと誘惑の限りを尽くします。

 サタンは狡猾です。こうしてサタンは自分の手を汚さずに、人が神の栄光を盗み、また神に逆らうように仕向け、神によってさばかれることを狙いました。甘い言葉のたった一つでも、もしこのサタンの称賛に心を許してしまうなら、あなたは1番大切なものを失ってしまいます。その時には、後からいくら悔やんでも、もはや心を変えてもらう余地はないでしょう。

 神を恐れましょう。「ほめ殺し」はサタンが用いる常とう手段です。私たちが自分を誇るようサタンは巧みに誘惑してきます。そして、ついには高慢の若枝が花を咲かせるのです。これから先、神の働きは私たちが思う以上に大きなものになります。実りは多いが戦いもまた厳しくなります。自分に死ぬこと、へりくだることを覚えて、まずは祈りましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年2月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

0 件のコメント:

コメントを投稿