2025年2月26日水曜日

 戦争と平和

 世界で最初の原子爆弾は、1945年8月6日に日本の広島に投下されました。それまでにはないような恐ろしい破壊力を持つ爆弾でした。14万人の人が、この一つの爆弾で命を失い、阿鼻(あび)叫喚ともいえる地獄絵図を見るように、あちこちで助けを求める声が上がり、痛みに耐えきれず川に飛び込んだ人もいました。建物も無残にも損壊し、美しい街は一瞬で廃墟になりました。

 それから、今まで80年の日々が過ぎました。86歳になる私の母は、第2次世界大戦を体験し、戦闘機から狙い撃ちをされた体験を覚えています。それを聞いた時、私は就学前の子どもでしたが、戦争を知っている人が亡くなったら、また戦争は起こるのではないかと、心に影が差し掛かったことを、今も覚えています。

 そして、それが当たったのか、今既に戦争は起こっており、世界はあたかも第3次世界大戦へ向かっての道を歩んでいるかのようです。そして、ご存じの通りこの戦争で最も懸念されるのは、核兵器の使用です。この後、全面戦争になったら、もしどこかが核兵器を使用したら、応酬に次ぐ応酬で瞬く間に地球は滅びてしまうでしょう。このような、人類滅亡とも言えるような出来事を、聖書は「主の日」と呼んでいます。

 ペテロの手紙第二にはこのように書かれています。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(3章10節)

 今の戦争で越えてはならない一線は核兵器使用にあります。核兵器を用いるならば、確かに互いの応酬の中で、あっという間にこの地は焼け溶けてしまうでしょう。しかも、その日が必ず来ることを聖書は何千年前の昔から予告しているのです。

 広島の広島平和都市記念碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という言葉が刻まれています。平和に対する強い決意がそこにはあると思います。過ちは繰り返しませぬ、その通りです。しかし、この戦争を体験した人はもうわずかになったのです。これからは、戦争を知らない私たちが、平和への真価を問われる時代に入ったのです。

 戦争と平和、これは表裏一体にある言葉です。戦争は罪から生まれます。奪い合い、搾取し合い、命が粗末に扱われます。憎しみを持ち、人を殺すことがその仕事です。権力によって、召集令状という1枚の紙切れによって無理やり戦地に送られ、命を奪われます。こんなこと、誰が望むでしょうか。このように、したくない戦争を作り上げてしまうのが、私たち人間の性質です。罪の性質です。

 それでは、平和はどのように来るのでしょうか。神は私に「赦し合う心」だと語ってくださいました。私たち個人にある罪に向かい合ってください。生まれながらの私たちは、例外なくありのままの罪人であり、この罪が、巡り巡って戦争を作り上げるのです。それゆえ、人を愛すること、赦し合うことに心を用いましょう。愛は力です。愛はくじけません。愛は不可能を可能にするのです。そしてその原点は十字架にかけられた主イエスのうちにあるのです。

 人のために、救いのために、死なれたイエスこそ、まことの救い主また永遠のいのちです。私も、以前は赦せない者でした。憎しみを持った罪人でした。しかも、それを手放すつもりもありませんでした。しかし、イエスさまが、ご自身を知らせてくださったゆえに、愛を知ったのです。互いに赦し合うことが、平和への道であるのです。

 ある人は、赦してしまうと「負け」だと思っています。それで頑なに赦そうとしません。でも、世には「負けて勝つ」という言葉があるではありませんか。赦した人が赦されるのです。赦さなければ、自分も相手も依然罪の縄目の中にいるのです。

 平和は、私たちの心から湧き起こってきます。赦せない人を赦しましょう。それが戦争にも打ち勝つ力となると私は思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年2月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年2月19日水曜日

ほめ殺し

 独身時代、父とよく「ちゃんこ鍋」を食べに出かけました。かつてお相撲さんであったご主人と奥さまが切り盛りしている店です。驚いたのが、その接客ぶりです。「まあまあ社長、もう一杯」「先生。先生。どうぞどうぞ」と勧め、実に見事に社長や先生と心をくすぐる言葉遣いをしています。さすが両国。よいしょする言葉がはんぱじゃないなあと、妙に感心した覚えがあります。

 その時ではなかったのですが、父に散々聞かされたのは「口のうまい者には気をつけろ」という言葉でした。「今まで自分が見てきた中で、口の上手いやつほど当てにならない。耳触りの良いことを言う者には腹にたくらみがあると思った方がいい。」今では私も、私なりに、このアドバイスには一理あると思っています。

 私は、何かを考える時、イエスさまならどうなされるだろうか、というふうに考えるようにしています。イエスさまは、人として世に来られましたが、神であられるのです。にもかかわらず、非常に謙遜であられました。ご存じの通り、主はご自分の肉において、十字架でいのちを捨て、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与え、救いをもたらしてくださったのです。イエスさまの故に、今はもう私たちは死さえ恐れる必要がなくなりました。

 これほど大きな事をしてくださった方ですが、イエスさまは一貫して謙遜であり、絶えず神に感謝をささげ、常に栄光を神に帰しておられました。人々からどんなに痛められ辱められても、父なる神に信頼し、呪いの言葉の一つさえも口にせず耐え忍ばれました。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(ヨハネの福音書18章11節)。これが十字架の患難を前にしたイエスさまのおことばでした。

 民衆はこのイエスさまに大いに期待しました。イエスさまは、病人や悪霊につかれた者をいやし解放し、また、5つのパンと2匹の魚で7千人の群衆を満腹させました。人気絶頂であったのです。そして、イエスさまは、そのすべての栄光を神に帰されました。常に父なる神と共に歩まれたのです。

 しかし、そのイエスさまがみ父から離れ、罪人の一人として数えられる時が来ました。何の罪もないイエスさまですが、この時は、御身に人類のすべての罪を負われ、十字架上で神のさばきを受け、死なれました。一時(いっとき)とはいえ、み父から離れ罪人となられた、これがどれほどのみ苦しみか、私には想像さえつきません。しかし、これは世界の歴史の中で最も大切なことです。神の愛は、この十字架の死(贖(あがな)い)と3日目の復活によって、人を完全に救うものとなりました。最大級のご栄光を神に帰しましょう。

 しかし世では、神さまが働かれるように、サタンもまた働くことを忘れてはなりません。例えるなら、先程のちゃんこやの女将さんのように、またはそれ以上に、サタンは、耳触りの良い言葉であなたの心をくすぐります。「あなたのような神の器は見たことがありません。あなたの説教は何と素晴らしいのでしょう」とか、「あなたこそ神の人です。こんな所にいないでもっと人前に出るべきでしょう」などと言ってほめ殺しにし、さらに、「ひれ伏して私を拝むならこの世のすべてをあなたにあげます」と取引までも持ち出し、「さあ、あなたの記念碑を建ててあなたのしたことを後世に伝えましょう」などと誘惑の限りを尽くします。

 サタンは狡猾です。こうしてサタンは自分の手を汚さずに、人が神の栄光を盗み、また神に逆らうように仕向け、神によってさばかれることを狙いました。甘い言葉のたった一つでも、もしこのサタンの称賛に心を許してしまうなら、あなたは1番大切なものを失ってしまいます。その時には、後からいくら悔やんでも、もはや心を変えてもらう余地はないでしょう。

 神を恐れましょう。「ほめ殺し」はサタンが用いる常とう手段です。私たちが自分を誇るようサタンは巧みに誘惑してきます。そして、ついには高慢の若枝が花を咲かせるのです。これから先、神の働きは私たちが思う以上に大きなものになります。実りは多いが戦いもまた厳しくなります。自分に死ぬこと、へりくだることを覚えて、まずは祈りましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年2月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年2月12日水曜日

 道子に出会えてよかった

 一昨年、私の恩師が亡くなりました。私が中学1年の頃の担任教諭で、学校が開校されたばかりの頃です。教師という生き方を深く模索している情熱型の先生でした。悪いことをすると、顔がキッと真顔になり、持っている国語の教科書で頭をたたかれました。ある時、学校にあめを持ち込んで、みんなで食べていたところ、「主犯がいるはずだ、立て!」と呼ばれて、立った私の頭の上にも国語の教科書はズシンと落ちてきました。今思えば、これは愛のむちだったと思います。

 教育ということを真剣に考えておられた先生で、年を取った先生の持つ教育論に感動しつつ、クラスをまとめるということや、思春期の生徒への対応など、お忙しい毎日であったことと思います。ありのまま、というスタンスで、結構皮肉をおっしゃいます。私もよく厳しいお言葉を頂きました。でも叱られているのにもかかわらず、なぜか嫌いになれないのです。本心は温かい方であると感じていたのか、先生の言い分が正しいと認めていたのか、今となれば、悪いところを指摘していただくということが、どんなにありがたいことであったかと、感謝する毎日です。

 当時、この先生は新婚ほやほやでした。広島から来た若い奥さまに甘えるように「お茶!」と催促した表情など、思い起こせば宝石を大事にするように奥さまを大切にしておられるようでした。好き、愛している、ほれた、三つそろってよく使われる言葉でしょうが、先生の場合「ほれた」という語が一番的確であったでしょう。

 残念ながら、お子さまには恵まれませんでした。しかし、教え子が山ほどいます。みな先生が大好きで、先生もまた教え子を大切にしてくださいました。私も先生とその奥さまと楽しいおしゃべりの時間を過ごしたことで、自然と結婚の祝福というものに目が向き始めました。

 聖書のエペソ人の手紙5章には、結婚に関してこのように書かれています。「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる(第二版では“一心同体となる”)」(31節)これが「結婚」です。さらに勧めとして、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)、「自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」(28節)と、こう語られています。

 興味深いことに、男には「妻を愛せよ」と言いながら、女には「夫に従え」と別のことを言っています。これは、愛というものはより難しいものであるゆえ、男に求められるものであって、女には(夫に)従うことが(夫への)愛となる、そう学びました。夫婦円満の秘訣(ひけつ)は、妻は夫に従うこと、夫は自分の妻を愛すること、そして、ふたりは一心同体となる、これに尽きるように思います。

 結婚を大切にしましょう。先生は、がんでした。しかし最後に残した言葉は「道子(奥さんの名前)に出会えてよかった」というものでした。世界中探しても、その道子さんはたった1人しかいません。道子さんという人が存在してくれたことが自分にとってまずうれしい。もうじき自分の人生は終わるが、顧みて「人生で一番うれしかったことは道子がいたこと、道子に出会えたことだ」。そう語っているのです。最高の言葉ではないでしょうか。死がふたりを分かつまで、その言葉通りお二人は愛を育んでこられたのです。

 結婚は、神によってなされる契約の儀式です。2人を引き合わせ一つにするのは神です。結婚は神のものです。あなたがいてくれるだけで私は十分幸せだ。そんな愛し合える人を、神は必ずあなたにも引き寄せてくださいます。それには時がありますし、導きがあります。待たされることも多いです。しかし最後には、お前に出会えてよかった、と言ってもらえるような人と人生を共にしたいと思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年2月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年2月5日水曜日

 後の雨リバイバル

 毎年2月5日になると、長崎の西坂で日本二十六聖人記念集会を行います。西坂は日本で最初の殉教の地で、今なお彼らの信仰をしのんで多くの人が集まります。そこには殉教者のレリーフがありますが、その中央に聖書の一節が刻まれているのをご存じでしょうか。「人若し我に従はんと欲せば己を捨て十字架をとりて我に従うべし」【だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。】(マルコの福音書8章34節)という一節です。日本二十六聖人の人生はこの一文を体現した人生でした。老人から子どもまで、外国人から日本人まで、さまざまな人がこの殉教に導かれました。日本にこのような信仰があったことを私は誇りに思います。

 日本二十六聖人もまた、生きることを自分のものとするのではなく、地上での生涯を神にささげ、世においては寄留者として生きることを聖書通りに実践しました。彼らは殉教しましたが、その生き方は私たちに「天」を示しました。「極楽」や「あの世」「地獄」しか知らなかった私たちに「天の御国」を知らせたのです。これは決して小さなことではありません。「死」を恐れることも無く、賛美の満ちる中、喜んで天に帰っていった26名。こんな人生は、日本人はそれまで見たことがありませんでした。ですから何が彼らをそうさせたのか、それを知ろうと多くの人が福音に耳を傾け始めました。そして日本の霊の壁は徐々に砕かれ、大きなリバイバルが起こってきたのです。

 彼らの信仰からは、神に対する絶対的な信頼が伝わってきます。たとえ、死ぬようなことがあっても恐れず、神の御声に聞き従い、神の最善を信じ、神に信頼し期待しているのです。そして事実、主イエスは十字架上で死なれましたが、約束通りに3日目に復活され、「死」は「いのち」にのまれてしまいました。今や誰であっても、イエスを主(救い主)と信じ口で告白するなら、罪の赦しと永遠のいのちが与えられます。

 使徒4章12節に「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と書かれています。その通り、「宗教」は星の数ほどあっても、「救い」はイエス・キリスト以外にはないのです。

 殉教者をはじめ、主を信じる者は、人生における勝利者です。信仰の人生は一見、何かを失ったかのように見えますが、決して何も失ってはいません。いのちさえもそうです。日本二十六聖人は、確かに世のいのちを失いました。しかし、神が下さる永遠のいのちを受けました。底が見えないほどの悲しみがあっても、そこに神は深い慰めを下さいます。神は私たちを愛しておられ、私たちに細やかな配慮をしてくださっているのです。

 何もないようでもすべてを持っており、また、神は苦難に耐え抜く力を与えてくださいます。時には奇跡を見、神による逆転勝利が起こります。そして主イエスの苦しみが、私たちに平安をもたらしたように、今度は私たちを通して、神は多くの人々に救いを届けようとしておられます。

 この聖なる招きに応答しましょう。いよいよ後の雨リバイバルが始まってきています。

MIKOE NEWSから転載」 2025年2月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/