2024年12月26日木曜日

リバイバルについて

 私は、1980年代の半ば、アメリカ主導のゴスペル全盛期に、主イエスを信じて救われました。ウオークマン(携帯音楽プレーヤー)をポケットに入れ、賛美を聞きながら、いろいろな道を歩いて回りました。深い慰めや力が注がれて、救われて間もないにもかかわらず、ご臨在さえ知るようになりました。霊歌もまた不思議で素晴らしく、イエスさまをより近くに感じました。

 いつの事かは忘れてしまいました。しかし、そう遠くはならないうちに、「リバイバル」という言葉を知るようになりました。それは、「復活」という言葉で、映画で過去に人気のあったものを「再流行」として、改めて用いられるそんな意味もあります。

 私たちにおいて、「リバイバル」は憧れです。イエスさまが来られた時と同じような力あるわざがなされるのではないか。死人はよみがえり、病人はいやされ、しるしや奇跡が現されます。こんなみわざ、私も見てみたいと、ずっと祈り求めてきました。多くの聖徒たちも祈り、その日を待ち望んでいます。

 「リバイバル」と呼ばれるような不思議なみわざは、最近では、アズベリー大学で起こった神の働きを挙げることができるでしょう。祈りが止まらず、みな夜も家に帰ることもなく、祈り続け、神の栄光を見ました。素晴らしい働きではあったのですが、「リバイバル」とは認定されず、その後、元の状態に落ち着いていると聞いています。

 また、少し前には、「トロントブレッシング」がトロントで起こりました。ホーリーラフィングに代表される解放やいやしがありました。これに関しては、神から来たものと、他の霊から来ているものとを見分けるように、というコメントが教会で語られました。テサロニケ人への手紙第一5章21節にも「すべての事を見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」と書かれています。霊的なものと実際的なものを見分けることは、正しく主に聞き従うためにはとても重要です。

 どんなリバイバルが来るのでしょうか。以前本で読みましたが、ある建物が焼けていると消防に連絡が入ったそうです。彼らが到着すると、火は消えないのです。建物もそのままで焼け落ちる被害がありません。何なんだこれは、と皆が集まって来て、不思議に思う中、「リバイバル」が起きたという実話があります。

 恐らく「リバイバル」は私たちの思いもしない形で来るのではないかと思います。というのも、使徒の働き2章をお読みください。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」

 これは、ペンテコステとして知られる神の「聖霊降臨」の日のことです。炎のような分かれた舌が現れて、一人一人の上にとどまる、というのは、ちょっと想像がつかない光景です。しかも、一人一人他国のことばで話しているのです。

 これから始まる後の雨「終末のリバイバル」はこれを受け継ぐものとなるでしょう。さらに大きな神のみわざを起こすとイエスさまは約束されました。教会ではリバイバルは既に始まっていると語られています。私たちは今、「終末のリバイバル」に最も近い所にいます。その信仰を用いてさらに「リバイバル」を期待しましょう。

 「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク書2章3節)

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年12月18日水曜日

 神の愛と守り

 祈りの戦士である某牧師は、一日に少なくとも8時間は祈る祈りの器です。素晴らしい主の働きであると思います。その牧師は、祈りに関しては、捉えることは三つだ、とよくおっしゃっていました。すなわち、祈りの中で「GO」「STOP」「WAIT」、このいずれかを捉えるのだといいます。「進みなさい」「やめなさい」「待ちなさい」これらを忠実に行うことによって、主のみこころの答えの捉えがより正確になったと語っておられました。

 私はというと、まだまだ研修中です。確信を持って進む時と、不安や恐れによってやめる時と、みこころかどうかがはっきりするまでさらに神のみこころを祈り求める時と、やはり三つをポイントとして、神のみこころを求めています。このことを始めてから、より神さまのみこころを知るようになりました。神の心を我が心とする、という土台があってこそ、神の声を正確に聞くことができるのです。

 また、神さまは、決して無口なお方ではありません。私に身の危険が迫っていた時、超自然的な方法を用いて助けてくださいました。私は聞く耳が育ってないのに「危ない。行ってはならない」という強い語りかけで、危険から守られたという激烈な体験を持っています。

 詩篇116篇の6節に、「主はわきまえのない者を守られる」という約束があります。ある時から、それを自分に対する神のことばとして受け取りました。私は、本当に「わきまえのない者」です。お調子者で恐れを知らず、心の赴くまま好き放題をしていました。隙だらけの人生であったと思います。しかし、主は守ってくださいました。

 数年前になりますが、催眠商法というのでしょうか、街を歩いているとティッシュを配っていたので、受け取りました。「道路の向こう側にもっといいものがあるよ」と言われたので、行ってみました。すると弁当袋やキャラクターグッズがありました。好きなのを取っていいよ、と言われたので弁当袋を取りました。すると、もっと良いものがもらえるから、賃貸の貸しスペースに来るよう勧められたのです。

 その言葉を聞いた瞬間、「危ない」という今までに聞いたことのないほど強い主のストップが来て、全身が恐れ、膠着(こうちゃく)しました。命を取られるような「危険」があることをはっきりと示されたのです。多分、人から見えない所で恐喝して、力ずくで、高価な贋作(がんさく)を買わせるつもりであったのでしょう。行く人と行かない人と主が人をかき分けてくださったので、そこから私も逃げていきました。恐ろしかったので、尾行されないようあちこちに寄りつつやっと自宅に帰ったのです。後にそれは催眠商法だと知り、わきまえのないものを守ってくださった主に改めて感謝致しました。

 これらのことから、本当に危機が訪れた時、主が唯一の頼みであることを学びました。主は、ご自分のいのちを捨ててまで、私たちを救いに導いてくださった愛なる方、力強いお方です。私たちの行く道をすべてご存じで、すべての者がご自身の元に立ち返るようにと、日夜働いておられます。

 まもなくクリスマスです。その主人公イエス・キリストは私たちを救いにあずからせるため、私たちのすべての罪を担い、十字架で死んでくださいました。そして、3日目に復活されました。このイエスの贖(あがな)いを信じる者は、永遠のいのちを受けます。この方を私たちに下さったことが何よりも深い神のご愛ではないでしょうか。

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年12月11日水曜日

 たった1人のクリスマス

 最近、主婦として疲れを覚えるのです。何かといえば、スーパーマーケットでの買い物です。今の季節では、クリスマスソングが大音量で流されており、キラキラしたツリーが飾られ、チキンの広告やケーキの申込書がそこかしこに置かれています。

 そうかと思えば、気の早い店はもう、お正月のお餅がタワーのように積み上げられており、お正月の歌が流れています。マーケットにはほとんど毎日行くので、もう耳にタコができるほど曲を聴かされました。こういったイベントが一年365日続くのです。バレンタインデー・ホワイトデー、卒・入学式、母の日・父の日、お彼岸、敬老の日、恵方巻、おせち料理など、ありとあらゆるイベントが考え尽くされ、少しでもユーザーの財布のひもを解かせるよう、鳴り物入りで宣伝しています。これを聴く度に、そろそろ私も疲れてきたかな、と思うのです。

 さて、クリスマスというのは、昔は教会が行うものでした。それが、友人間で持たれ家族で持たれ、何と当地では町内会でさえクリスマス会を行います。プレゼントの交換、キャンドルサービス、そしてクリスマスソング、とすべてが目新しかった教会のクリスマスはどこへ行ったのでしょうか。最近のクリスマスは、パーティーなのです。1年で1番大きな、そして特別なパーティーであるのです。それゆえ、この日をプロポーズの日にする人も大勢います。実際のところは、これは太陽の復活を祝う冬至の祭りなのです。

 一般的にクリスマスは「イエスさまのお誕生日」として祝われています(本当の誕生日は別な日です)。ルカの福音書2章ではこう書かれています。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節)。野宿する羊飼いたちに御使いがこのように告げると、たちまち、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(13、14節)。静かで清らかなご臨在のうちに救い主の誕生を祝う、これがクリスマスではなかったでしょうか。

 ところが、今のクリスマスはサンタクロースこそ頻繁に出てきますが、教会にでも行かない限り「イエスさま」は出てきません。宗教色を無くしたほうが人は集まりやすいからかもしれません。でも、私にとっては、イエスさまの無いクリスマスは、餡(あん)の入っていないあんぱんのようです。1番大切なものが失われているように思います。クリスマスの主役は他でもないイエスさまなのです。

 何年か前、友人がうれしい便りをくれました。そこには、「今年のクリスマスは、久しぶりに、聖書を読もうかなと思っています」と書かれていました。そこで思ったのですが、聖書を開くだけの自分1人のクリスマスというのもまた良いものではないでしょうか。聖書のことばはいのちのことばであるので、必ずあなたに触れることばがあります。そしてそれこそ神があなたに下さろうとしている贈り物です。

 心を主に向け、主の声に耳を傾け、祈りの部屋で静まりましょう。がやがやしていると主の声がかき消されてしまいます。たった1人のクリスマス。聖書だけのクリスマス。ごちそうも食べないのに、深く満ち足ります。

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年12月5日木曜日

 永眠

 この季節になると、毎年喪中欠礼の葉書が届きます。何某が何歳で「永眠」しました、という一文を見ると、いいようのない思いが胸に去来します。ご遺族さまには誠に残念なことで衷心よりお悔やみ申し上げます。

 「永眠」という言葉はまことに美しい日本語だと私は思います。今まで何日も何年も、眠っては目を覚まし、また働く、その繰り返しがあって、やっともう覚めることのない永遠の眠りに、その安息についたのです。その人生に敬意を表し、ゆっくりお休みください、という思いになります。誰であっても人生の最期を迎える時が来ます。2度と覚めない眠りにつきます。だからそれを「永眠」と呼ぶのです。決してあからさまに「死」にました、とは言いません。文末には、そこにも触れてみたいと思います。

 天国にはその人がどういう生涯を送ったかを記録した本があると言います。また、天国にはそれとは別に「いのちの書」という本があり(ヨハネの黙示録20章12節参照)、これには、イエス・キリストを自分の救い主と信じた人々の名が記録されています。あなたが、世に生きていた間に主イエスさまをご自分の救い主として信じたなら、間違いなくあなたの名前もこの書に記されています。そして「この者は、イエスを主と告白し信じた。それゆえ、この者の一切の罪はキリストの十字架によってすべて無効である」「天国に入ってよし!」という宣言の声を聞くのです。

 長短ありますが、おのおのににこの世における人生があります。神が下さった地上での生涯です。この時間をどのように用いたかが、神さまが人に問われるところだと聞いています。神のみこころをわが心として行い、祝福のしるしに朽ちぬ冠を授けてくださることもあります。冠は、永遠の評価、神の評価です。天では天での報いがまたあるのです。人生を神のために用いる者は幸いです。その者は決して後の日の報いに漏れることはありません。

 さて、冒頭で私は、「永眠」について言及しました。覚めることのない眠りの意ですが、しかし、正確には「永眠」した死者は一度よみがえります。それはおのおのが神のさばきの前に立つ「最後の審判」の時にです。

 ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「海はその中にいる死者を出し、死もハデス(黄泉)も、その中にいる死者を出した。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。『いのちの書』に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(20章13、14節)

 この箇所で、海の中から、死の中から、ハデスの中からたくさんの「死者」が出されたことが分かります。彼らは「死者」でした。「永眠者」でありません。そして、死とハデスは火の池に投げ込まれ、先ほどの「いのちの書」に名が記されていない人物、すなわちイエスの救いを受けなかった「死者」もみな火の池に投げ込まれました。これは「第二の死」と呼ばれるものです。

 「第二の死」というものがあるなら、当然第一の死というものがあったはずです。あくまで私の推論であり、全員に当てはまるかどうかも未定ですが、第一の死とは「肉体の死」です。ちりから出た人はちりに還ります。私たちが失うのは肉体だけです。

 また「第二の死」は、イエスを信じなかった者たちへのさばきでもあります。海から死からハデスからすべての「死者」が出され、神による最後の審判を受ける時、神は人の霊魂(れいたましい)の価値を測られます。神に従ってきた者とそうでない者がいます。前者には永眠が、後者には火の池が用意されています。

 イエス・キリストにあって永眠した者たちは、今、休みを得ているのではないでしょうか。御使いの号令とラッパの音で目が覚め、天に引き上げられるまで休んでいるのです。そして、ヨハネの黙示録にあるこの「第二の死」こそ、本当の意味での最終点である「死」であるのではないでしょうか。

 聖書には、さばきと赦しという二つのものがその根幹にあります。その二つを一つにされたのがイエスさまなのです。十字架の主を信じ、永遠のいのちにあずかりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/