2024年8月28日水曜日

いのちの水

 私の母は、白馬に行くたびに安曇野の水がとてもおいしいと言います。北海道に住む私は、北海道の湧水がとてもおいしいと思っています。少し前の日本の社会通念では水はタダでした。私たちは、まさに湯水のように、良質な水を惜しげなく使ってきました。これは他の国々と比べると、うらやましがられる程の恵みです。

 今、北海道の水源を外国資本が相次いで購入しています。彼らは、水の価値がよく分かっているのです。生きてゆくためにまず確保しなければならないのは、飲み水です。モーセに率いられイスラエルの民が荒野を行く時、しばしば問題になったのも水でした。人や家畜が飲む水が十分に調達されなければ生きていけません。出エジプト記17章で、民はこの飲み水のことでモーセと争いました。神はモーセの杖(つえ)でホレブの岩を打つよう語り、そこから水がほとぼしり出て、荒れ地に川のように流れ、ご栄光が現されました。

 アブラハムの昔から、水を求めて荒野で井戸を掘ることは、彼らの民族にとって重要な仕事でした。しかも、水であっても飲めない悪い水もあるのです。これらは死んだ水です。流産や病が引き起こされる原因ともなりました。世界では、このように水を求めて苦労した歴史があるので、日本の水がいかに上質なものか、彼らは着目して、手に入れようとしているのです。

 上質で豊富な水は日本に与えてくださった神さまの祝福です。少し前なら、お金を出してペットボトルの水を買うなんて考えられませんでした。しかし、今またこれからは、買うばかりか安全な飲み水を求めて資源を奪い合う時代となるでしょう。また、先日ペットボトルの水から発がん性物質が検出されたというニュースもありました。水の問題はいのちに直結する問題なので、間違いなくこれからの時代をひもとくカギとなると思います。これからは、水を制する者が世界を制するようになると、私は思っています。

 ヨハネの福音書によるとイエスさまは、祭りの終わりの大いなる日に大声でこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(7章37、38節)

 また、井戸水をくみに来たサマリヤの女に主イエスは語りました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(4章13、14節)

 世には多くの飲み物があります。けれども、本当に渇いた時は水です。水を欲します。しかし、世の水は飲んでもまた渇くのです。ですが、イエスさまが下さる水は、渇くことなく、あるいは泉となってわき出で、あるいは心の奥底から生ける水の川が流れるようになる、というのです。サマリヤの女は「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と言いました。私たちも同感ではないでしょうか。

 黙示録22章には、天の都の大通りの中央に、水晶のように光るいのちの水の川があることが書かれています。川の両岸にはいのちの木があって、12種の実がなり、毎月実ができ、また、その木の葉は諸国の民をいやします。マーリン・キャロザース師は、存命中に天国に行かれましたが、その時、実際にいのちの水の川や生ける水を見たそうです。そしてその水のことを「生きている」と形容しました。それは生きていて、互いに喜んでささやきあっているような、いのちあふれる水だと述懐されています。天国には、地上の良い水よりもさらに優れたいのちの水の川がその中央を流れており、神の子である私たちはこれを心ゆくまで飲むことが許されています。

 それゆえ、イエスさまはこう言われました。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(17節)。渇く者は幸いです。イエスが下さるいのちの水を頂きましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年8月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年8月21日水曜日

願うことの力

 聖書の福音書の中に「長血の女のいやし」として広く知られる逸話があります。恐らく婦人科系の病であろう長血を、12年もの間患っている女性がいました。彼女は多くの医者からひどいめに遭わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった上、病状は悪くなる一方でした。

 もはや彼女にとって頼りとなるのは、イエスさま以外にありませんでした。多くの人をいやされたあのイエスさまならきっと私をいやしてくださる。そのお着物にでも触ることでもできれば、私は必ず直る。一心に願いまた信じた彼女は、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスさまの着物にそっと触れました。

 すると、たちまち血の源が枯れて、ひどい痛みが直ったことを体に感じました。イエスさまもご自分のうちから力が外に出ていったことに気づいて「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言いました。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、ひれ伏してイエスに真実を余すことなく打ち明けました。イエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」——そう言ってくださいました。

 彼女がしたことは、「願った」それだけです。そして、いやしてほしいという強い「願い」は、いつしか、きっといやしてくださるという信仰に変わったのです。そして、事実その通りになりました。「願い」とは求めることです。そして、求めることは信じることにつながります。

 サムエル記第一1章に、ハンナという人物が登場します。ハンナは不妊の女でした。夫エルカナにはぺニンナというもう一人の妻がいます。ぺニンナには何人も子がいるので、子のないハンナをいら立たせることをわざとします。それで、ついにハンナは主の宮に行き、激しく泣き、心を注ぎ出して願いまた祈ります。「はしために男の子を授けてください。そうすれば私はその子の一生を主にささげます」。祈った後の彼女の顔は、もはや以前のようではなかった、と聖書は記しています。事実、その後ハンナは身ごもり、子が乳離れした後、その子サムエルを祭司エリのもとに連れていき、誓願を果たしました。

 願うこと、これは力ある営みです。それは、信仰の扉を開きます。確かに願わなければ何も起こりません。しかし、願うなら、願い続けるならやがてそれは確信となり信仰となって、ついには神の手が動くのです。願ったことはきっとかなえられると信じるその信仰を、神は決してむげにはなさいません。

 ヨハネの手紙第一5章14節にもこう書いてあります。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」 

 信仰は、「願う」ことから始まります。神は、私たちを愛してくださっているので、私たちが何を願いまた求めているのか、常に関心を持ってくださっています。ですから、ハンナのように問題を主の手にお委ねするまで心を注いで祈り、祈り切るまで願いまた求めましょう。みこころにかなう「願い」は決して地に落ちることはなく、最善の時に成就します。それゆえ熱心に神に「願い」ましょう。神は必ず願ったその実を結ばせ、ご栄光を現してくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年8月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年8月14日水曜日

イエスさまを信じて間もない方であっても祈りは聞かれます

 生ける神のみわざにあずかるためには、長い修行に励んだり、あるいは特別に選ばれた人だけに起こる奇跡だと思っていませんか。私も以前はそう思っていました。ところが、イエス・キリストを信じクリスチャンになってみて、まったくその考えが変わってしまいました。

 主を信じてわずか2、3カ月の頃です。ある牧師が興味深い話をされました。韓国のクリスチャンが、具体的な条件を挙げて祈ったところ、祈った通りのものが与えられたというのを聞いて、ご自分でも具体的に祈り、主が応えてくださるか試してみたそうです。

 求めたものは机です。与えられた時に、偶然ではなく神から来たと分かるよう牧師は具体的に条件を挙げて祈りました。ねずみ色の事務机がいい。それには深い引き出しがあって、ファイルをしまえるように。また、引き出す時グーッという音がするものがいい、などです。時は流れ、そんな祈りをしたことも忘れた頃、ある日、引っ越す方があり、言われたそうです。「不要な机が二つあるのですが、要りませんか」。牧師は「良い方の机を置いていって」と答えたそうです。しばらくして、階下に降りてみたところ驚きました。まさに祈った通りの机がそこにあったのです。

 感動した私は、救われてまだ2カ月でしたが自分も祈ってみようと思いました。ボーンアゲイン(新生)を機に引っ越しをして、駅から遠くなったので、通学や教会に通うための自転車を必要としていました。そこで、思いつく限り具体的に自転車に注文をつけて祈りました。黒いメッシュのかご、変速機能がついたもの、カギは二つ、ライト付き、横に傾いて止まるもの、ブランドもので、小さめの車体、色は赤かそこらのもの、などです。

 しかし、人間は罪人、業の深い者です。神が本当に生きているということを知りたいのです。ですから、どうかこの祈りを聞いてください、と真剣に求めたにもかかわらず、私は一方で自転車をくれそうな人に電話して、もらうという話をつけました。その自転車はママチャリで、祈ったものとは違います。でも、自転車はもらえたのだから、教会に行って報告して喜ぼうと決めていました。

 ところが、2、3日後その人から突然電話がかかってきました。「ごめん。実は自転車が盗難にあってしまって…」。これを聞いた瞬間、これは「神の手だ」とはっきり分かりました。私のふた心を主は射貫かれました。私は神に求め、同時に世の手段にも訴えたのです。これは神への欺きでした。

 猛省して、悔い改めました。すると赦してくださり「保証人の方に引っ越したことを報告しなさい」という促しがあり、連絡しました。すると、「駅から遠くなるなら自転車要らないか」と向こうから聞いてこられました。そう聞くや否や、これこそ祈った通りの神の自転車だと確信したのです。そして、日曜日。待ちに待ったその自転車と対面しました。驚くことに、すべて祈った通りの自転車がそこにありました。私は奇跡を見たのです。

 信仰に年月は関係ありません。信仰は完成品であり、成し遂げてくださるのは主です。信仰を用いて祈るなら、私のようなわずか2カ月のベビークリスチャンでも、信仰歴数十年の人と同じものを受けるのです。実に神は、信仰に働かれ、恵みによって願いに応えてくださいます。誰であれ、信仰を用い祈るなら、この瞬間にも生ける神のみわざを見ることができます。

 マタイの福音書にも次のように書かれています。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(21章22節)。祈りをもって私たちが神に近づく時、神もまた私たちに近づき、ご栄光を現してくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年8月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年8月7日水曜日

自分のふんどしで~見分けの重要性

 私は、ある教会の、屋根裏部屋で救いにあずかりました。ですから、自然と日曜ごとにその教会に通い、教会生活にもすんなりとなじむことができました。

 教会また教会時代というのは、イエスさまによって生まれたものです。イエスさまが世に来られる前は、律法を守ることが救いへの道でした。しかし、罪ある私たちはとても律法を守ることができません。それで、時満ちてイエスさまは世に来られ、十字架の死と復活によって私たちを贖(あがな)い、罪の赦しを成し遂げ、ご自身を信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。旧約時代は律法を守ることが救いの条件ですが、新約時代では、イエス・キリストを信じることが救いの条件となったのです。

 こうして救われた者たちの群れ、それが教会です。ですから、教会につながるということはとても大切なのです。信じて救われたのだから自分一人で信仰を守る、そう語る方も中にはおられますが、これはサタンのささやきで、教会につながっていないと、信仰は必ずおかしくなっていきます。自然界でも、群れを離れた動物は真っ先に敵に狙われます。イエスさまは教会のかしらで、教会はキリストのみからだであると言われていて、信じる私たちは、互いにその各器官です。教会のカバーの中で私たちは守られ成長していくのです。教会に属することがいかに重要か理解していただけたでしょうか。

 その上でお話ししたいのは、見分けるという視点を持つことです。教会の決定に従うことが重要なことは分かっていただいていると思います。しかし、盲従はいけないのです。あなたの信仰は、他人任せの信仰になっていないでしょうか。長い物には巻かれろという言葉があります。教会の、力ある立場の人の言葉に巻かれて、教会に従っていれば大丈夫だ、みんなと同じにしていれば間違いないだろう、こんな安心を抱いて直接神に聞くことをやめていませんか。確かに教会の言うことを聞いていれば守られます。それは間違いありません。でも、自ら神にまた聖書に聞いていなければ、大きな落とし穴に落ちる、そんなこともあるのです。

 第2次世界大戦が起こった時、日本の多くの教会は過ちを犯しました。その時代、天皇は現人神(あらひとがみ、人の形を取った神)として崇拝されていました。けれども、私たちクリスチャンにとっては、神は、天地を造られた創造主以外にありません。礼拝の対象も、唯一の神以外にありません。たとえ命を失っても、この信仰を貫き通すというのが私たちの取るべき信仰ではなかったでしょうか。でも、残念なことに私たちの先人の多くは世に迎合したのです。「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」としたためて、日本基督教団が立ちました。もちろん、迫害されてまで正しい教えを貫いていった教団もあります。

 近世にあれほど多くの殉教者を出した国なのに、大戦下の昭和の時代には世を恐れ、天皇崇拝を受け入れ加担したのです。名ばかりの教会になってしまいました。世には教会を名のっていても、救いの実質を失った教会があります。たとえば、中国の三自愛国教会がそれでしょう。形は教会でも、福音を語ることや神に聞き従うことは語られません。国の政治と一致していることが求められるのです。このような教会は、もはや実質を失った単なる一宗教です。また、正しい神の教会でも、自分で聞かなければならないことを教会に依存していては、段々信仰が曖昧になり、いざ試しが来ると自分ではどうしてよいか分からず倒れてしまいます。

 ですから、教会に属するとともに自分の信仰をしっかりと持つことが大切です。よく「他人のふんどしで相撲を取るな」と言います。ですから、いうなら自分のふんどしで相撲を取りましょう。これは信仰のことを言っているのです。教会のカバーの中で自分の信仰を用いて一つ一つを確認し、自ら責任をもって決断し、つながってゆくのです。これは非常に重要です。

 聖書にも「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」(テサロニケ人への手紙第一521節)と書かれています。自ら見分けを持たないでは、道を踏み外してしまいかねません。教会につながるとともに、信仰の自立を目指しましょう。

  MIKOE NEWSから転載」 2024年8月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/